7月, 2020年

「なんじゃこりゃ」で“石原軍団”は消えていく

2020-07-18

私が「松田優作」という俳優を初めて見たのは『西部警察』というTVドラマだった。もしかしたら『太陽にほえろ』の方が先だったのかもしれないが、そちらの方は見ていない。とにかく、まだ駆け出しの若手俳優だったころで、役柄も別部署から配属されてきた異色刑事という設定だったが、その演技というか物言いというか正に“超個性派”で、強烈な印象を受けた。「こんな俳優がいるんだ」と圧倒されたのを記憶している。もちろん、それは“あの時代”だから「許された刑事」で、もし今ならたちどころにコンプライアンスで引っ掛かる。スポンサーからも視聴者からも批判が殺到することだろう。けれども、彼の風貌や物言いは“あの時代”に相応しく、その“存在感”において誰よりも輝いていた。そのうち彼は、別なTV番組やアクション映画などで人気を得ていくようになるのだが、私は『西部警察』に出ていた時の松田優作氏の“縦横無尽さ”が、いちばん好きだった。その故・松田優作氏も所属していた「石原軍団」が昨日、正式に来年1月を持って解散することが発表された。もう十年近くも前から、実質的にはほとんど機能しなくなっていた映画プロダクションだった。かつて石原裕次郎氏が立ち上げ、渡哲也、神田正輝、舘ひろしなど、そうそうたる俳優を輩出してきた。裕次郎氏が亡くなってからは、実質、渡哲也氏が“軍団”を率いた。けれども、その渡氏は現在闘病中で、とても社長の重責を担えない。一応、裕次郎氏の奥様である石原まき子氏をトップに据えて来たが、もう86歳で年齢的にも潮時と判断したようだ。「石原軍団」というと近年は災害時の“炊き出し”で有名であるが、メンバーが老齢になりつつあって、それ自体も辛くなってきているに違いない。何しろ、舘ひろし氏も神田正輝氏も70歳である。解散後は二人とも独立して俳優業を行うらしい。観相学的には、舘ひろし氏の方は法令線がクッキリしていて、まだまだ現役俳優として活動できるし、後輩何人かは付いてくることだろう。神田正輝氏の方は何となく“勢い”が乏しい。松田優作氏が「西部警察」で暴れていた時期が、石原軍団の最盛期だったのかもしれない。

気象庁よ「占いとは違う」と胸を張れ⁉

2020-07-17

私が年初から言っている「防ぎようのない自然災害」が“猛威”を振るっている。世界各地で、さまざまな形で猛威を振るっている。ただ、こういうものは「今年は運命学的に“そういう年”なのだ」と割り切ってしまえば、別に次々起こっても驚くこともない。人間というのは「先が解からない」から不安になるので、ある程度の“見通し”が立てば、そんなに怖がることも無くなるのが普通だ。そういうわけで、とにかく今年いっぱいは(正確には来年の年初くらいまでは)「防ぎようのない自然災害」というものの“怖さ”を、われわれが乗っている「地球丸」は見せつけることであろう。ただ、それが通り過ぎれば、徐々にではあるが“本来の姿”に切り替わっていくだろう。このまま沈んでいくことはない。結局、形の上での“世界大戦”は無くなったが、“貿易戦争”や“人種戦争”は無くならず、“疫病”もはびこって、嫌でも「地球丸」の乗船者たちは“脱皮”を繰り返しながら、生きていかなければならないように出来ているのだ。むしろ、何事もなかった“平穏な時代”や“平和の時代”や“経済発展の時代”という「順調な歴史」は、地球の歴史から見ればそう長く続くものではないのが“本来の姿”だったのだ。或る意味ではだから、そういう「順調な時代」に大部分の年齢を過ごすことが出来たわれわれは“幸運世代”とも言える。さて、気象庁は昨日“前線の停滞”が予想以上に長くて、西日本一帯の“豪雨”が3日に始まって13日連続となり、記録を更新して、それを見通せなかった「われわれの実力不足だった」と気象庁の関田康雄長官は記者会見場で詫びた。けれども、私は違うと思うのだ。元々、気象庁の天気予報は「占い」とは異なる。的中すれば良いというものではない。世の中の多くの人は間違っているが、逆に「占い」は、本来の役割は“的中させること”で、それが出来れば、その後の“対処法”に関しては多少上手く行かなかったとしても、本来は“責められるべき”ことではない。もちろん、対処法も見つけようと努力するが、見つけられないこともある。さて「天気予報」の方は、的中は“二の次”で良い。むしろ、その後の“対処法”について、的確に指示できるよう他と連携を取りながら、的確な指示を行えば良い。所詮、データによって知り得るのは、その程度のものだからである。「占い」の場合はデータだけでなく、或る種の経験的な直観力が、これにプラスされる。だから、同じデータからでも、当てられる人とそうでない人とが出てくる。何度も失敗して、惨めな経験をして、それがやがて的中をもたらす。だから「外す」ことを怖れるなら、プロ占い師になるべきではない。

ススキノ「600人濃厚接触」で“赤信号”点滅

2020-07-16

札幌が危ない。いや「ススキノ」が危ない。全国有数の歓楽街というか「夜の街」であるススキノからクラスターが出た。それも「キャバクラ」という、日頃からもっとも“濃厚接触”を売り物にしている店だ。9日に最初の感染者が出て13日まで営業を続けていたという最悪の“オマケつき”である。したがって、現在まで判明している客と従業員の“陽性”は12名だが、今後、増えていく可能性もある。札幌市からは「店名公表が出来ない」ということだが、それだと客の方も、自分が行っていたキャバクラなのか、確認が出来ない。したがって“知らずに感染者を増やしていく役割”を担ってしまう可能性もある。やはり店名は公表した方が良い。そうしないと、今後半年くらい、この店だけではなくて、札幌のキャバクラ全店舗に客が寄り付かなくなってしまう。いや、キャバクラだけではない。ススキノ自体に客が寄り付かなくなる可能性もある。なぜなら、ススキノの場合、最初のクラスターは、ライブハウスのバーで発生している。今度はキャバクラなので、ススキノの「夜のお店」全体が“危険視”されてしまう可能性もある。札幌の隣の街、小樽では「カラオケのバー」からクラスターを出している。どう考えたって、これでは「札幌の夜」そのものが危険視されやすい。実は、札幌は全国のどこよりも早くに“緊急事態宣言”が出て、夜のススキノへの自粛要請が出ていた。したがって、夜の街から“人が消えて”もっとも長期間が経っている。最近になって、ようやく少しずつ客足が戻りつつあったさなかなのだ。言ってみれば「これから…」という時期に、やってくれたのだ。もちろん、そのキャバクラへの出入り人数から「濃厚接触者600名」などとも言われるが、実際には同じ人が何回も通っているかもしれず、感染していない従業員もいるから、必ずしも、その店に行っていたから感染しているとは限らない。ただキャバクラのような店は、基本、濃厚接触で成り立っている。ススキノの場合、地域的に“その種の店”は集中している。だから、実際にはその周辺に出入りする業者達なども、感染の可能性がある。店名を公表しないと、ススキノ全体が全滅してしまう可能性だってある。北国は、寒いから肌を寄せ合うのに、それが出来ないススキノは、文字通り「灯」が消えていく。

「本能的人相学」だけは、なぜ世界共通⁉

2020-07-15

私は以前から不思議に思っていることがある。それは、人はだれでも本能的に「人相家」として、発言したり、振る舞ったりする、ことに対してである。なぜ、何にも「人相」の勉強をしていないのに、堂々と自信をもって「人相家」として、発言するとか、行動するとか、出来るのだろう。世の中、そんなに「自信家」が多いのだろうか。実は、アメリカが連邦政府としては17年ぶりに「死刑」を挙行したというニュースが流れた。そこには17年ぶりに“死刑執行”された人物の写真が掲載されている。グニエル・リーという人物で、1996年に一家三人を殺害した“白人至上主義者”である。確かに“悪そうな顔”をしている。誰が観たって“悪そうな顔”なのだ。けれども、もちろん、それは第三者の主観であって、実際に日頃から「ワル」だったのかどうかは、本当のところ分からない。私は観相家だが、いま述べたのは「人相学」の方からではなくて、あくまでも“何となくの主観”、或いは“見た目の印象”からにすぎない。ここが、私の言う“本能的な人相学”で、じつはそれは単なる印象でしかない。ところが、この“本能的な人相学”のやっかいなところは、誰しもが、学ばなくても潜在的に持っていて、日常において駆使していることである。どうして人は本能的に「悪い人」だとか「善い人」だとか、決めつけられるのだろう。それは、決して人相学上のシステムを踏んでいない。謂わば“直感”にすぎない。それも、見た目だけの“直感”にすぎない。けれども、ほとんどの人達は、そこに自信を持っていて、何も学んでいないのに自信を持っていて「絶対、悪い人だって‼」などと言う。とにかく、自信家が多いのだ。しかも、それは“世界共通”で「悪い人」は、世界の果てまで「悪い人」で通用する。そういう点からすると、やっぱり、先天的に「美しく」生まれついているとか「可愛らしく」生まれついているというのは、人生上の“お得”が多い、ということになる。ところで、アメリカはなぜ忘れていた“死刑執行”を行ったのだろうか。それは、多分、彼が「白人至上主義者」だったからだ。現在、世界各地で“人種差別問題”がクローズアップされている。アメリカは「われわれは人種差別の国ではない」ということをアピールしたいのだ。もっとも、その死刑執行の方法は“薬物注射”で、アメリカなのに銃の一斉射撃で、“首が飛ぶ”という方法ではなかった。

“占い”を「哲学」にすることの「危険性」

2020-07-14

まず誤解を避けるために、私は特定の占術家を傷つけたり、攻撃したりする気は毛頭ない。ただ根本的に“危険な部分”を孕んでいるので、それを指摘しておきたいだけだ。去年から今年にかけて占星家として知られる松村潔氏が『西洋占星術哲学』『タロット哲学』という二冊の大書を刊行されている。彼の書籍は大体がそうなのだが、分厚い。もう少し要領よく書けないものかな、と私などは思ってしまうのだが、とにかく何でもねちっこい書き方をする。今回の二冊は、多分、彼にとっては、ご自身の占術に対しての“向き合い方”を表明するものなのに違いない。ただ、彼自身は良いとして、それを“そのまま受け止める”読者がいるとすれば、少々危険なのだ。「占い」というのは、元々「哲学」なんかではない。むしろ、それとは“真逆”に位置するもので、哲学的発想から生まれたものではない。「哲学」というのは、最終的には「生きるとは何ぞや」を追求していく学問である。「占い」というのは「未来を指し示す」術技である。元々“学問”よりは“技術”に近く、そのための理論や体系でしかない。われわれは誰でも、古代からずっと、幸せを追求して生きている。その幸せを得るための“一つの方法”として未来への「道しるべ」を求めた。それは「生きるとは何ぞや」ではなくて、こっちへ向かえばこれこれが…、あっちへ向かえばこれこれが…、という極めて現実的な“可能性”を示唆するものである。本来、そういうものが「占い」なのだ。古代人は「生きるとは何ぞや」を追求するために「占い」を創始したのではない。あくまでも“生活の知恵”として、襲って来る「敵」や「自然災害」から逃れる方法、或いは負けない方法のヒントとして、後世の人々に“それ”を遺そうとしたのだ。だから、世界各国、各民族に、固有の「占い」が遺されている。宗教よりも、より現実的な“手立て”として、古代人は“星”を観て、或いは“掌”や“顔”を観て、時に動物の“骨”や“肝臓”を観て、さまざまな暮らしの中のものを観て、それを“未来を知る手立て”としてきた。未来を予知することで、少しでも“凶災”から逃れたかったからだ。「生きるとは何ぞや」を追求し過ぎると、結局、占いなんて「意味のないもの」のように扱いがちになる。自分が、これまで「占い」を研究したのは何のためだったのか、と思い悩むようなことになりやすい。それこそ、私が「危険性」を警告する一番の“落とし穴”なのだ。

昔、縁起の悪かった「元号」は変えられた⁉

2020-07-13

記憶力があいまいで、それが日本の話だっだか、中国の話だったか、判然としない。けれども、どちらかの国で間違いなく“そういう年”は、存在している。つまり「新たな元号」に変わって、悪いこと続きで“縁起が悪い”と変更されてしまった「元号」がある、という歴史的事実だ。誰もが何となく感じていることだから、書いても「罪」には問われないだろう。日本は「令和」になって、ろくなことがない。もちろん、日本ばかりの話ではないので「令和」に“罪”を擦り付けるのは良くない。けれども、オリンピックが開催されるはずだった“我が日本”は、特に“新型コロナ”の影響をもろに受けた。いや、そればかりではない。私が年初から懸念していたように「防ぎようのない自然災害」は今また各地で“集中豪雨”による災害をもたらし、鹿児島・熊本・長野・群馬・石川・東京(西之島)にある火山の噴火を招いた。また大きくはないが、各地で地震を頻発させてもいる。文字通り「防ぎようのない自然災害」ばかりだ。それで、各都道府県の自治体で災害などのため“プールされているお金”が、このところ急速に目減りしているらしい。したがって、“新型コロナ”の「第二波」とか「第三波」とかがやって来ても、今度はもうそれに対して「給付金」をホイホイ差し出してあげられません、と言われている。つまり、日本は急速に「貧乏」になったのだ。これはやっぱり「令和」のせいなのか、などと思っても言ってはいけない。1970年代~1980年代にかけての「バブル景気」を復活させれば良いことなのだ。もう「カジノ」や「オリンピック」は当てに出来ないから、新たなる“何か”を発見しなければならない。海底資源を発見するとか、海底遺跡を発見するとか、各地の温泉を掘り当てて近隣諸国に販売するとか、漫画の世界同時発売で“日本思考”を世界に普及させるとか、日本の“可愛いファッション”で世界を制するとか、日本の“匠”や“日本酒”で世界を酔わせてしまうとか…何かで世界をリードして、日本の活性化を促さないと、我が日本丸は“沈みそう”な雰囲気ではないか。みんなが「元号のせいだ」などと思わないうちに、はやく変えていかないと…。

81%が「自分の血液型」を知らない国

2020-07-12

日本で「自分の血液型を知らない」というのは、何んとなく“無知なこと”のように思われがちだ。かくいう私も、多分「A型」だとは思っているのだが、それはあくまで父親と母親と兄弟の血液型からの推測で、本当のところはよく解からない。だから、私は時に「血液型占い」などについても、雑誌などで頼まれれば書いたりもするが、自分は何なのか、知らずに書いている。無責任に思う方がいるかもしれないが、決して、そうではない。私は「血液型」そのものに関しては世界のさまざまな研究成果を調べた時期があるからだ。その結果、私自身の結論としては、血液型はただ単に「A型」「B型」「O型」「AB型」に分けただけで性格とか能力とかを判断できるものではない。だから、真剣に思い込むのは危険なのだ。大体、多くの人は知らないが、血液型の分類方法自体が、現在では十数種類もある。そのうちの「ABO式血液型」と呼ばれるものが、一般的にいうところの「血液型」なのだが、それを細分していくと「37種類になる」という説もある。要するに、大雑把な“四分類”ですべてを読み取ろうなんて、土台が無理なのだ。しかも、俗にいう「血液型」はそんなにクッキリとした境界線で分けられるようなものでもない。アジアには「B型」や「AB型」が存在するが、欧米には「A型」と「O型」しか存在していないらしい。これでは“血液型占い”自体が成立しない。ということで、英国では55%の人が自分の血液型を知らないそうである。特に18歳~24歳の若者では81%が自分の血液型を知らないらしい。それはそれで、急病などの場合に困りそうな気もするが、私もそうだが、案外、どうにかなっていくものだ。そういうわけで日本人は何でも“大まかに区分し過ぎ”なのだ。よく「中国人はこれこれ…」とか「韓国人だからこれこれ…」とか「アフリカ人だからこれこれ…」とか、さまざまな先入観というか、思い込みというか、イメージというか、そういうもので“くくり過ぎ”なのだ。だから「しいたけ占い」が「十二星座占い」と知らされると、急に“ドン引き”する。大体「しいたけ占い」なんて言う“おかしな占い”存在するわけないじゃないか。マスコミも変なものを“持ち上げすぎる”と、あとで困ることになるのだから、最初から“へんてこ占い”は単純に取り上げ過ぎないことだ。

「ユニコーン」が出現する夢の意味は…⁉

2020-07-11

たまたま「東京国立博物館」の“東洋館”にあるという「アジアの占い体験コーナー」に関しての記事を読んだ。興味深い内容で、モンゴルの「シャガイ占い」について書かれていた。羊のシャガイ(くるぶしの骨)を使った占いらしく、いかにもモンゴルらしい。こういう素朴な占いは、その根拠がどこにあるかなどを考えてしまうと楽しくない。単純に自分の運勢を占ってみるのが良いのだ。方法的には“4個のシャガイ”を転がして、表面に「ウマ」「ラクダ」「ヒツジ」「ヤギ」のどれが出て来ているか、4個それぞれの組合せで占う。古代には世界各地にこういう素朴な占いがあった。こういう占いを“現代的にアレンジ”して蘇らせたい。私が“超有名占い師”だったなら、絶対に行っている。もう一つ、このコーナーの“売り物”に「夢占い」がある。各地域での「夢占い」を用いているのだが、不可思議な図柄のクッションが多数置かれてあって、そのうちの“どのクッション”を用いるかによっての「夢(代行)占い」なのだ。その占い結果は、クッションの裏側に記されている仕組みだ。そういえば、私には最近見た夢で、とても気になっている“夢”がある。それは夢の中で私は古い木造の雑然とした工場のようなところで仕事をしているのだが、私たち4~5人の職場は二階の隅なのだが、そこに一階の玄関からそのまま階段を上がって何かが登って来るのだ。一階に居る従業員たちのどよめきが聴こえる。そして現れたのは真っ白くて、おとぎ話から抜け出したようなユニコーンの姿だった。通常の馬のように大きい。二階の中をグルっと一瞥した。怖い。私は動かなければ…と思うのだが、動けない。こっちへ来たらどうしよう。と、ユニコーンは斜め前方にどんどん進んだ。雑然と置かれた作業用の木材とか紙とかが、こっちへの侵入を防いでくれた。ところが、ユニコーンの行く手に階段はない。隅まで進んだユニコーンは荒々しく踵を返した。そうしてあっという間に登って来た狭い階段まで戻ると、こっちの方をチラリと見た。怖い。なぜか解からないのだが、私は怖いのだ。絵本から抜け出したような美しいユニコーンなのだが…。そうして、ゆっくりと階段を下りて行った。私は、その神々しいまでに美しい姿を“怖い”と感じながら目を覚ました。

手相の頭脳線と「認知症」の関係

2020-07-10

人間は誰でも齢を取る。そうすると誰でも弱っていく。肉体的に弱っていくのは当然で仕方がないのだが、頭脳が弱っていくのは困る。生活に支障が出るからだ。漫画家でタレントの蛭子能収氏がTVの“健康診断番組”で「レビー小体型認知症」と「アルツハイマー型認知症」の合併症の初期であることが宣告された。認知症に“合併症”があることを初めて知ったが、最近の私には他人事とは思えない“記憶力の低下”がある。まあ、自分の年齢を考えれば、記憶力が低下してきて当然なのだが、それにしても「若い頃の私」は、どこへ行ったのか。あの優秀だった頭脳はどこへ行ったのか。昔は、黙っていても頭に入った。何も見なくてもすらすらといえた。ところが、人の名前が出てこない。ものの名前が出てこない。わかっているのに出てこない。これが鑑定中に起こると最悪だ。さっきまで“これこれについて”言おうとしていたのに、その“これこれ”が急に何だったか、思い出せない。そういう時、私は適当な話をしながら言葉を繋いで、言おうと思っていた“これこれ”が何だったか、必死に想い出そうとする。重要なことだったのは解っている。だから言っておかなければならない。けれども、いったん忘れてしまったものは、元に戻らない。その間、私は平然と話し続けている。何も無かったかのように話し続けている。だから、ほとんどの場合、相手は、私が実は必死に“想い出そうとしている”ことに気付かない。時間だけが虚しく流れていく。私は、そういう時、一応もっともらしいことを話し続けているので、実は“これこれ”で必死になっているなどとは夢にも思わない。ダメだ。もう時間だ、結局、思い出せない。そうして、相手が、扉の外に消えた瞬間、ふっと憑き物が落ちたように語ろうとしていたことを思い出す。もちろん、私は相手を追ったりはしない。相手が驚くだけのことだ。今度、来た時に告げれば良い。果たして、来るだろうか。そして、その時まで憶えているだろうか。手相では頭脳線が比較的短いと、若い時は良いのだが、長命になると本来の頭脳が十分に働かなくなってしまうようなことになりやすい。よく頭脳線の長短と“頭脳の良し悪し”を結び付けている人がいるが、それは間違いだ。短く優秀な頭脳の持ち主はたくさんいる。問題は高齢になった時だ。短いと或る一定の年齢以上はカバーできなくなる。だから急速に衰えて来る。頭脳線が長いと、いつまでも現在の頭脳を維持できる。認知症になりにくい。但し、頭脳線が大きく下降していると“妄想”が強まっていく。実際にはないことを“あった”かのように思いこみやすい。そういう意味では、長ければ良いというものでもない。ただ比較的短い人は認知症になりやすい要素があることだけは知っていた方が良い。

40か国「世界500店舗」紳士ブランドが破綻

2020-07-09

かつてはウォール街で一番人気だった紳士ブランド「ブルックスブラザーズ」が銀行に“破産申請”を出した。創業200年、リンカーン大統領やケネディ大統領も愛用したスーツの老舗ブランドで、世界40か国、500店舗以上、4000名以上の従業員を抱えている。日本の「民事再生法」に当たる手続きで、複数のファンドが買収に名乗りを上げていて、ブランド名そのものは存続する。今年は“新型コロナ”の影響で、出社する人達が減り、その結果として一番の被害がアパレルメーカーに及んでいる。自宅内で仕事をするなら、普段着で良い、ということになる。元々この何年か、急速にオフィスの“カジュアル化”が進んでいた。テレワークも推奨されて、もはやビジネスマンと言えども、スーツにネクタイで出社する、という時代ではなくなりつつある。その結果、アメリカでは今年に入って、J・クルー、ニーマン・マーカス、JCペニーといったアパレル大手が次々と破綻している。「働き方改革」などと言わなくても、時代の流れで“働き方”が変わり、スーツやネクタイが不要になりつつあるのだ。そのうち、政治家と芸人だけがスーツを着る、という“おかしな時代”がやってくるかもしれない。私は“若い頃”「ネクタイを締める」という行為が嫌いで、そうしなくても良い仕事や職場ばかり択んだ。ただ、その当時はほとんどの人が“ネクタイ姿”だったので、そうせざるを得ない仕事にも就いたが、すぐに辞めた。そのくらい「ネクタイ」というものが嫌いだった。ただ“スーツ姿”が嫌いだったわけではない。髪も長髪で、それもサラリーマンは行わない髪型だった。だから長髪でネクタイをしないスーツ姿だったので、当時としては“グループサウンズの一員”のようなスタイルだった。「白い眼」で見られたが、私は平気で押し通した。いまは誰もが似たようなカジュアルスーツ姿の若者たちばかりで、個性も何もない。かと思うと、極端に“今を気取った異様なファッション”か“Tシャツ・ジーパン”か、それら以外の選択肢がないのか、と思うほど一様化している。本来、オシャレとかファッションとかは、“自分らしさ”の追及で、着ているものを観て「その人が理解できる」ようなものが良い。女性の方は、比較的自由に、プライベートでそれを表現しているように思うが、男性はなぜ「自分」というものを表現できないのだろう。

「野性の本能」を“許す”ことへの疑問

2020-07-08

“動物愛護”とか“動物保護”とかに対して、異常に熱心になる人達がいる。そういう人達が、本当に“愛情深い人”なのかどうか、疑問に思うことが多い。スイスのチューリッヒ動物園で7月4日の午後、来場者たち多数が居た目の前で、一人の女性飼育員(55歳)が突如アムールトラに襲われた。ベテランの飼育員はとくべつ間違った行為をしたようには思えない。そこには二頭のトラが居たのだが、襲ったのは5歳の雌トラの方だった。見物客からの通報を受け、すぐ救護チームが駆け付けたが、時すでに遅く、襲われた飼育員は園内にある救護室に運ばれ手当てを受ける間もなく死亡した。現在もまだ警察による事故現場の検証が続いているので、本当のところはよく解からない。ところが、すぐに動物園側は声明を発した。今回の事故は「イリーナ(アムールトラの名前)は何も悪くない。彼女は野生動物の本能に従っただけだ。もちろん処分は行わない」という声明だ。確かに、野生動物が「野性の牙をむいただけ」と言えば、そうであるのかもしれない。けれども、それによって自分の動物園に長年勤めていた女性職員が死んでいるのだ。女性飼育員はまだ入って間もない飼育員ではない。仮に、檻に入ることを禁じていたのに入った(?)のだとしても、何も理由なく入るはずがなく、禁じていなかったのなら業務の一環として何かをするため入ったに違いない。いずれにしても、従業員である飼育員が襲われて亡くなったのだ。どうして野性のトラの立場から“弁明するような声明”がすぐに出されるのか。襲ったトラは2015年にデンマークで誕生し、昨年になってチューリッヒ動物園へと来た。もしかすると、まだ十分馴染めていない部分があったのか。とはいうものの女性飼育員とは“顔馴染み”であったはずで、見ず知らずの人間ではない。私は大昔、覚せい剤の息子が母親に襲い掛かって来ると嘆いていた、占いの相談者を想い出す。どんな理由があろうと、襲ってくる方を野放しには出来ない。実は、このチューリッヒ動物園では昨年の12月にも、フィリピンワニが女性清掃員を襲って腕を負傷させた事件が発生しているのだ。どこまで「動物」に甘いのか。

もはや「温帯気候」ではない日本列島

2020-07-07

日本の場合、やはりと言うべきか「防ぎようのない自然災害」の“新しい波”は「集中豪雨」で襲ってきている。それが異常な“今年だけの現象”になるのか、それとも“その後も続く開始年”になるのか見極めは難しい。ただ確実に言えるのは、日本の気候が90年代以降に大きく変化し始めている、という事実だ。それまでは「温帯気候」として、誰もが教科書で教えられ、実際に“その通り”だったのだが、どうも2000年代に入って純粋な「温帯気候(厳密には温帯湿潤気候)」とは言えなくなってきた。このことはデータ的にも、ある程度は証明されていて、毎年、雨の降る日数そのものは減ってきているのに、豪雨の発生頻度はじわじわと上昇しているのだ。もちろん、ちょっとだけよの雨の日が増えるより、短時間で集中豪雨としてやってくる方が災害に繋がりやすい。実はこれは“日本の南側”だけと考えられがちであるが、実際にはそうでもない。日本の北側というか、北西側というか日本海側は冬場にそれがやってくるのだ。つまり“大雪”“ドカ雪”が“集中豪雨”の代わりとなる。したがって夏は“雨による災害”が多くなり、冬は“雪による災害”が多くなる。それも、地域によって南東側は「雨」、北西側は「雪」という感じにバランスが取れる。と言って喜んでいる場合ではない。明らかに、日本列島の「気候」そのものが本来の「温帯気候」から“離脱”し始めている証ともいえるのだ。気温そのものも、ざっくりいうと2度~3度くらい上昇しつつある。上昇度合いは北の地域の方が高くなりやすい。それに対して沖縄などは気温そのものはそんなに大きく変化しないのだが、高温日数が増えていく。つまり、真夏状態が長く続く。もはや四季のハッキリした日本列島ではなくなってしまいそうなのだ。「夏」と「冬」が長くて「春」や「秋」の短い日本列島に変わってゆく。そして、集中豪雨とドカ雪が増えて農作物にも変化が出てくる。動物などの生態系にも変化が出てくるはずで、もしかしたら、近年、クマの出没が多くなったのも、このことと無関係ではないかもしれない。日本人の気質も、平安時代のような優雅さは消えて、戦国時代のように殺伐としてしまうのか…まあ21世紀後半だけどね。

「先住民族」に勝てない「文明」という“錯覚”

2020-07-06

われわれはどうしても「先住民」とか「原住民」という言葉を聴くと、アフリカの人々を連想しがちである。けれども、実際にはアフリカのほとんどは“文明社会”である。けっして弓矢を持って生活していない。そこへ行くと南アメリカのアマゾン流域には文字通りの「先住民族」が今も“弓矢を持って”暮らし続けている。彼らは「文明」に“乗り遅れた”のではない。「文明」を“拒否し続けて”今日まで来ているのだ。或る意味では、アマゾン川流域という自然環境が、それを択ばせたともいえる。熱帯雨林は通常の文明生活が役立ちにくい。例えば服装なども、湿度が高いので裸の方が楽なのだ。幼い頃から“狩猟民族”として育つと、文明社会の“変な仕事”であくせくするなんてまどろっこしい。食べたいものがあれば、射止めれば良いのだ。そのための“弓矢”だ。それに、何よりも「文明人」は弱い。その証拠のように、エクアドルのパスタサ県に暮らす先住民族は、いとも簡単に“二人の警察官”“二人の兵士”“二人の民間人”を捕まえた。この六人を“人質”として、新型コロナウイルスで亡くなった首長の「遺体を俺たちに引き渡せ」と要求したのだ。自分たちには、自分たちの“やり方”がある。首長の遺体は“神聖呪術”によって葬らなければならない。それが古代から続く「掟」なのだ。六人の人質を取られて、なすすべもなく、文明人たちは先住民族に、文明的なやり方で埋葬してあった“感染者の遺体”を掘り起こし、彼らの言う通りの場所へと運んだ。そうして、人質になっていた人々は解放された。ここで注目すべきは、そこに“二人の警察官”と“二人の兵士”とが含まれていたことである。われわれ文明人の警察官や兵士は、いとも簡単に拉致された。要するに弓矢を駆使する先住民族に、歯が立たなかったのだ。まるで宇宙人に拉致された地球人でもあるかのように、いとも簡単に拉致され、そして目的を果たされた。「文明」とは何だろう。われわれは「感染症」にも勝てないし、地震や豪雨や火山噴火にも勝てない。要するに勝てるものがない。そして先住民にも勝てない。宇宙人が来たら多分勝てない。先住民が「文明」を拒否したのは当然だったのかもしれない。

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