6月, 2019年

「平成駆け込み婚」&「令和婚」と天王星アスペクト

2019-06-17

私は基本的に自分の宣伝めいたことを書くのはあまり好きではない。ただ今回は占星学の研究者には参考になるかもしれないので、一応記しておく。月に1回(厳密に言えば現在は2回分)ココロニという占いコンテンツ企業からの依頼で「恋占ニュース」という形でwebコラムを寄稿している。テーマは向こうから出してくるので、それに合わせて寄稿する形だ。今月分は18日・19日に掲載されるが「令和婚」がテーマだった。そこで早速、実際に調査してみると、今回の或る種“ブーム的な結婚”が天王星の動きと関係が深いことがわかった。つまり、実際には今年3月以降に「平成駆け込み婚」をしたカップルも含めて、現在まで「令和元年婚」をした女性達の多くには共通性があるのだ。つまり、トランジット(進行中)の天王星と出生時における天王星の位置とが昨年12月~今年5月に120度、或いは150度を形成する女性達が圧倒的に多いのだ。もちろん、これは年齢的なものとも関係があって、大体1982年前後、或いは1989年前後に生れているケースが多い。したがって、年齢的には30歳前後、或いは37歳前後ということになる。心理的に考えれば、37歳前後であれば「令和」が来る前に結婚したいという気分が働きやすいし、30歳前後(1989年生まれ)の場合、元号で言うと「平成元年生れ」となるので、結婚も新しい「令和元年婚」にしたいという意識が働きやすい。そういう心理的なものも加わって、占星学的データが出て来たといえるかもしれない。けれども占星学的な解釈からすれば、トランジットの天王星と出生時の天王星とがアスペクトするときには人生上の変化が生じやすいし、本人の中でも「新たなる世界」「未知なる領域」に挑む状況が生活の中で生まれやすい。それに対して120度アスペクトの場合は周囲も協力的であり、150度アスペクトの場合は予期せぬ形からのスタートとなる。したがって、120度の場合は順調な結婚となり、150度の場合は“急きょ結婚する運び”となるケースが多い。したがって今年入籍した女性の中には、“ブームにあおられるような形”で結婚してしまった人がいるのかもしれない。もう一つ、天王星の動きで興味深いのは丁度「平成」から「令和」に切り替わる直前に、占星学的には「おひつじ座」から「おうし座」へと移動していることだ。そして、この天王星の“星座移動”は「昭和」から「平成」の元号の切り替え時にも起こった。つまり、1988年の年末に「いて座」から「やぎ座」へと移っているのだ。つまり、日本という国は“天王星の動き”と深く関わっている国だということだ。そういう意味では、今年3月~4月にかけて起こった出来事が「令和時代」を象徴する出来事になっていくのかもしれない。

「警察で預かる」と詐欺した巡査長

2019-06-16

職業的にみて「絶対にやってはいけないこと」というのがある。例えば、警察官が特殊詐欺に遭いそうになった人のお宅に出向いて行って“詐欺をする”なんて、これはどう考えたって救いようがない。親切そうだった現職の警察官が、実は“詐欺でした”って、あまりにひどすぎてドラマにも出来ない。「そんな警察官はイヤだ」って言われても、なんだか笑えない。そういう話は海外の話と相場が決まっていた。いつから我が国は、こんな哀しい国になっちゃったんだろう。昨日、京都府警は山科署の現職巡査長・高橋龍嗣(38歳)を詐欺の容疑で逮捕した。2018年11月8日と15日の2回にわたって、同じ78歳の男性から500万と680万を詐欺して連絡を絶ち、その高齢者から警察に相談があって判明した事件だ。最初の日は、実際には巡査部長と共に、高齢者宅を訪れ、巡査部長が席を外したすきに、自宅内にあった500万円を「特殊詐欺にあったらいけないので、お金を預かる」ということで受け取っている。考えてみれば、これほど大胆な犯行はない。どうして、そういう流れになったのかというと、その日、その男性は危うく“特殊詐欺”に遭いそうになった。自ら金融機関に出向いて、680万円のお金を引き出そうとした。何となく不審なものを感じた担当者が警察に連絡を入れ、警察官が出向いて説得し、引っ掛からずに済んだのだ。その日のうちに、今後の対応と正式調書を採るため巡査部長と巡査長である高橋龍嗣とが、その男性宅へと向かった。そのお宅訪問時に容疑者は詐欺を働いたのである。送金に“待った”をかけた警察官が、まさか自宅まで来て“詐欺を働く”とは高齢者でなくても考えない。だから男性は巡査長に言われるまま500万円を差し出した。おそらく何の迷いもなく差し出したのだろう。その様子から容疑者は、もう一度やってみよう、と思ったに違いない。ただ、ここで重要なのは、もう一度やったから発覚したのだが、もし最初の時だけで止めておけば、容疑者が「高齢男性の妄想じゃないですか」と言い逃れることが出来た可能性がある。何の証拠品も残ってはいなかったからだ。ところが、もう一度やっても成功しそうな気がした容疑者は、今度は前日に金融機関へと電話を入れたのだ。「先日の男性がどうしてもお金をおろしたいといっているので680万円の出金手続きを進めて欲しい」金融機関の方ではおかしな指示だなとは思ったが、現職警察官からの指示なので、指示通り出金の用意をした。こうして2回目も詐欺に成功したのだ。ただ、この金融機関への“おかしな指示”が決定的な証拠となった。容疑者は高齢者を騙しただけではなく、金融機関をも騙したのだ。そういう意味では“プロの詐欺師”と何ら変わらない。初回だけなら、単なる“出来心”という言い訳も成り立つが、2回目は現職警察官という立場を利用して双方を騙したという点で、もはや救いようがないのだ。

購買率95%男性「お嬢様聖水」は“美容飲料”⁉

2019-06-15

最近は“ネーミング”ひとつで同じ商品でも売れたり、売れなかったりする。今、密かに話題となっているのは「お嬢様聖水」だ。別に“成人向け”なわけではない。けれども、一般のコンビニなどではまだあまり置かれていないようだ。現在はキャバクラとかガールズバーとか、そういうところからの需要が多いそうである。う~ん、なるほど。最近は「お嬢様聖水サワー」も発売しているらしい。何しろ、購買層は圧倒的に男性で、男性の購買率が95%なのだ。ここが面白いところで、男性100%ではない。けれども、元々このドリンクは“女性向け”に発売された。なぜなら、女性の美と健康に有効な植物由来の酵素をを含んでいる。細長い指で「お嬢様聖水」と大きく記された缶を開け、大きく足を組んで、優雅に口に流し込む女性。或いは逆に、目の前に缶を突き出されて、頬を染め、いやいやながら命令されたまま口に流し込む女性。そのどちらもが“絵”になる。発売元は、どういう意図で売り出したのか、今一つ判然としないが、ともかく2015年4月1日に売り出して以降、人目を気にしながら男性だけが購入していく商品となった。いや、人目を気にする男性達だけではない。何んと鈴鹿市のプロサッカークラブ「鈴鹿アンリミテッドFC」では自分たちのユニホームの目立つところに「お嬢様聖水」と記しているではないか。よく選手たちが嫌がらなかったものだ。それもそのはず、この飲料水の発売元は彼らのスポンサー企業なのだ。つまり選手たちは「僕らは、いつでも、お嬢様聖水を呑んでいるから元気なんだ」とでも言いたげである。実際、この発売元企業に、スポンサー企業となってくれるよう依頼してきたのは、このクラブの社長・山岡竜二氏だった。彼自身が「お嬢様聖水をアピールしたい」と猛アタックしたのだ。それにしても、女性向けの美容飲料が圧倒的に男性達から支持され、しかも、その理由が本当のところは判然としていない。まさか「キレイになりたい」から飲んでいるわけでもあるまい。そうすると、もし一般のコンビニなどにも置くようになれば、或いは居酒屋とか、レストランとかでも置くようになれば、意外と“大ヒット商品”になる可能性があるのではないのか。そうして、それに目を付けて、自分自身の「お嬢様聖水を売って‼」と希望する女性たちが続々と出て来て、製造元も急きょ「ホンモノ・お嬢様聖水」を販売し出す…というようなことには多分ならない。

お手本とすべき「ぱみゅぱみゅ」の言葉

2019-06-14

人間には元々“偏見”の強い人と、少ない人とがいる。口では「平等」などと言いながらも、その言動を見ると、とても平等な見方を持っているとは思えない著名人も多い。昨日、私が感心したのは歌手きゃりーぱみゅぱみゅの“批判”への対応である。まず十代でデビューした彼女も、もう26歳になっていたことを改めて気付かされた。だから、大人としての発言をするのも当然なのだが、その対応は見事の一言に尽きる。彼女は12日SNS上で人生で初めて「ホストクラブ」に行ってきたことを“動画”と共に載せたのだ。それに対して、多くのファンから“批判”や“心配”の声が寄せられていた。それらに対して彼女は《私は銀座のクラブもキャバクラもガールズバーもホストクラブも2丁目スナックも偏見なくどこでも行くよ。どこの世界でも№1になるような人は魅力的だし、学べることがあって楽しいのだ》と返している。芸能人女性でも、ホストクラブにはまって大金を貢いでしまったり、自分を見失って軌道を外れていった人は多い。けれども、彼女がこのような意識の元で店を訪れている限り、心配無用というものだ。大体、世にいう“成功者”が崩れていく時は、男性は女性かギャンブルに溺れるケースが多く、女性は何かへの依存症かオトコに溺れていくケースが多い。もともと人間は弱いもので、ちょっとしたきっかけで“奈落の底”へと引き摺り込まれてしまう。まさか、あの人が…と思うような人が、思わぬ事件の主役として登場することもある。そうかと思うと、多少のスランプはあっても、いつまでも変わらぬ笑顔や若さを維持し続けて、王道を駆け抜けていく人もいる。それを定めるのは「運命」と思っている人が多いけれども、最終的には本人の意志と理性、もっとわかりやすく言えば「性格」なのだ。窮地に陥ることは誰でもある。長い人生には、誰でも「もうダメか」と思うようなときがある。或いは立て続けに不運としか言いようのない「凶事」が重なることもある。そういう時、どう人生を立て直すか、窮地の中で突破口を見出すかは、本人の性格に掛かっている。もちろん、私は運命家であるから、運命的な観点から“現状の分析”“吉兆の把握”“時期の選定”“方向性の指示”等を行うことは出来る。けれども最終的には、本人がどう感じ、どう決断し、どう動き出すかなのだ。その基は性格である。そういう点で、きゃりーぱみゅぱみゅの《偏見なくどこでも行くよ》《学べることがあって楽しい》という姿勢は、この人が決して“道を踏み外すことのない人生”を歩んでいくことを見事に表している。

“過去は幻”として選択した「ビートたけし」

2019-06-13

私が「こいつはスゴイ‼」と驚いたのは、まだ世間的には「ビートたけし」の名が浸透していない頃であった。何気なく見た番組で吉田拓郎氏がゲストとして呼んだのがTVに出始めたばかりのビートたけし氏であった。それは完全にTVの枠を超えていて、吉田拓郎氏が笑い転げていたのを覚えている。実際、TVとか番組とかいうことを完全に無視してボケまくる彼を私も素晴らしいと思った。それまでにはいない“笑いのツボ”を押さえている。台本もないのにテンポが速く、ナチュラルな笑いにもっていく。彼以降もいろいろな“お笑い芸人”が世に出たが、あの当時の「ビートたけし」ほどの“瞬間芸”には達していない。ただ彼が“活きていた”のは、交通事故に遭うまでであって、それ以降の「ビートたけし」には“笑いの神様”が抜け落ちてしまっていた。ハッキリ言うと、もはや“普通の人”以外の何物でもなかった。そういう彼にTV業界が縋りついてきたことは“過去に縋りついている”以外の何物でもなかった。おそらく、そんなことは彼自身も気付いていて、だからこそ「映画」制作に夢中になったに違いない。そうすることで「自分は死んでいない」ということを世に訴えたかったのだ。実際、そのお陰で彼は海外で評価されることになる。映画監督「北野武」として“生まれ変わった”のだ。女性関係もころころ変わった。1980年に幹子夫人と結婚したが、相性が良くなかったのか、一緒に暮らした期間は短かったようだ。広く知られているのはグラビアアイドルとして活躍した細川ふみえ氏との関係だ。交通事故で二人の関係が壊れて、細川ふみえ氏の運命も変わった。すぐに芸能界を辞めてしまえば、幸せな結婚が出来た可能性もある。2014年に週刊誌がスクープしたのは全然別の女性、新たな愛人ともいうべきビジネスウーマンだった。週刊誌の見出しには「100億円の愛人」の文字が躍った。それからすぐに「T.Nゴン」という奇妙な名前の新事務所を立ち上げる。そして2018年には自分が設立した「オフィス北野」からも撤退する。さらに今年5月、これまでの全財産を放棄することで正式に幹子夫人との離婚も成立したらしい。人によって、ビートたけし=北野武氏の“生き方”はさまざまに捉えられることだろう。長年連れ添った妻との“正式離婚”を望んだのは、先に亡くなった内田裕也&樹木希林夫妻とは真逆の生き方である。どちらが「正しい」とか「幸運」と一概には言えない。ただビートたけし氏は“過去の栄光”を捨てたかったのかもしれない。「過去は幻」として「今」を択んだのだ。

未来の「試算」など役立たないのに…

2019-06-12

老後30年で“2000万円が不足になる”という金融庁の試算が問題になっている。このところ将来とか未来に対してのさまざまな「予測・試算・データ」が色々な形で調査・公表されることが多い。大体、日本では、どれも将来的な予測で“明るい未来”を示すものはなく、そのほとんどは“不安な未来”にしかならない。それは、或る意味当然で“現在の日本”というものを土台として、データを紡ぎ出していくからである。ところが、個人でもそうなのだが、“現在”というものを土台にして未来の人生を論理的に推し量っていくと、だいだいは外れることになる。現在から1~2年先の出来事まではだいたい予測に近い現象が出て来ても、5~6年先、10年先、20年先…と未来に進むほど、距離が隔たっていけばいくほど、論理的な予測通りの世界とはかけ離れていく。それが人生であり、だからこそ人生は面白く、不思議なものなのだ。だから金融庁の試算など、どんなに頑張ったって役に立たない。元々そういう風に出来ているのだ。それが証拠に、すべて計画通りに「人生を歩んでいる」という人がいるなら、出て来てもらいたい。仮に、計画通りに人生を歩めるとしよう。そうすると人生は楽しいだろうか。丁度、脚本に書かれてあることを、そのまま演じていく“役者のような人生”となるわけだが、それで幸せを感じられるだろうか。おそらく、これほど“つまらない人生”はない。仮に、それが“素晴らしい人生”で、悩み事など何一つない将来だったとしても、それで満足だろうか。もし、あなたが“人生の脚本家”なら、少しぐらいは困らせるシーン、悩ませるシーンを付け加えようとするだろう。意地の悪い人なら、一度“どん底”に落としてから、這い上がって来る人生を描こうとするに違いない。そうでないと何か“ちっぽけな人生”に思えるからだ。俗にいう「波乱万丈な人生」とまでは行かなくても、少しくらいは「起伏のある人生」にならないと、ドラマとしても面白くない。そのせいかどうか知らないが、なかなか“希望が達成されない”とか、“苦悩から脱出できない”という人々もいる。けれども、自分をドラマの主人公だと思えば、それはそれで“頑張っている自分”で面白い人生と言えるのではないだろうか。だから、人生にあまり「試算」など行ってはならない。特に「論理的な試算」や「経済的な試算」など止めた方が良い。解からない中で“のほほん”と生きていく。或いは逆に“懸命”に生きていく。時には“格闘”しながら生きていく。“無我夢中”で生きていく。そうやって自分なりの“生き方”で人生を乗りきっていく方が、はるかに“幸せな生き方”であると私は思う。しょっちゅう、預金通帳と“にらめっこ”している人がいるが、そういう人が建てた目標額は大体が達成されない。予定通りなら達成されるはずなのに、達成できないのだ。「運命の女神」は、いつも優しく微笑みながら、あなたの“生き方”を見つめている。

「キレる男」&「子持ちキャバ嬢」危険な子育て

2019-06-11

6月5日に2歳児の池田詩梨(いけだことり)ちゃんが衰弱死した問題で、昨日、札幌の警察署と児童相談所が相次いで会見を開いた。この“衰弱死”に関しては、近隣住民、保育園などから相次いで「虐待ではないか」「育児放棄ではないか」と児童相談所や警察の方へと通報があったにも関わらず、実際にはほとんど行動していなかった。警察の方からは児童相談所の方へ一緒に出向くことを促したが、夜遅いということで“待った”をかけていたらしい。本来であれば、児童相談所の方から警察に相談するようなケースなのだが、なぜか、待ったをかけたのは児童相談所という“解かりにくい構図”なのだ。少なくとも、近隣住民から、何度も通報が入るということは、よほどの状態であることは誰でも推測がつく。それなのに児童相談所は動かなかった。もしかすると、児童相談所は容疑者たちが怖かったのではないか、と私は思う。或いは金を掴まされていたのか。なぜなら、今回逮捕された母親の交際相手は一見して“ヤバい系”であり、首にまでタトゥが入っている。母親は“№1キャバ嬢”であり、もしかすると母親や交際相手の背後に“組織”がちらついていた可能性もある。本来であれば、子供側につかなければならない児童相談所が、完全に親側に回っていた印象がぬぐえない。だから通報があっても、実質的には放っておいたのだ。上層部とか、政治家とか、役所側とか、どこからか動きを止められた可能性だってある。保育士たちの間では「絶対ネグレスト(育児放棄)よね」と話し合っていたくらいだから、見た目ですぐプロなら解っていたはずなのだ。容疑者の母親はまだ21歳である。子供が産まれて間もなくの頃のSNS等を見ると、決して母性愛の乏しい印象はない。それが昨年あたりから変化している。噂の域を出ないが、彼女はお決まりの“ホスト狂い”だったという話もある。交際相手は見るからに“ヤバい系”だが、一応、飲食店経営者ということになっている。それにしても、最近の“幼児虐待”や“育児放棄”には、キレやすい「ヤバい系」の若い男と、シングルマザーで幼い子持ち「キャバ嬢」の組み合わせが多い。夜の仕事をする女性達にとって、子供は「生きがい」になるか「邪魔者」になるか、どちらかしかない。したがって「生きがい」の場合には必要以上に甘やかして金銭を注ぐし「邪魔者」になる場合には虐待をするか放棄をするか、大体どちらかになる。ホストでなくても、男の方に“貢ぐ形”となった場合には、子供は“愛の対象外”へと変化していくケースが多い。したがって、そういう組み合わせを感じたなら、児童相談所は“監視の眼”を強めていなければならない。そして、地元警察との一体化“合同チーム編成”を早急に進めないと、いつまでたっても、こういう事件は無くならない。

「差別のない人間」などいるわけがない

2019-06-10

最近、差別に関するトラブルやニュースが多い。「人種差別」「性差別」「信仰・思想による差別」「経済的な差別」「外見的差別」など挙げていけば切りがない。とにかく世界的に“差別を許さない社会”を模索しつつあるような気がする。そうして、それに“違反?”した場合には、多くの場合、社会的な糾弾を受ける。時には、その企業とか、店舗とか、人物とかが“猛バッシング”される。そして多くの場合には「謝罪」を余儀なくされる。時には、それでも済まずに企業倒産、店舗の閉鎖、個人の役職・仕事・収入とかまでも剥奪される。要するに徹底的に叩きのめされる。確かに「差別」は良くない。が、しかし、世の中に「差別」というものを、まったくしていない人などいるのだろうか。もちろん、ここで言うのは「あからさまな差別」ではない。あからさまな差別は、少なくとも“常識をわきまえた大人”はしないものだ。けれども、事実上の“優先的な差別”は、誰でも、どこでも行っている。よく飛行機に乗り込むときに行われる“優先搭乗”というやつだって、或る意味では立派な差別だ。特別な“お客様”だけを優遇するというのは、どの企業とか、職種でもやっている。例えばデパートだって、“特別なお客様”の元には自宅に居ながらデパートの方からやって来る。企業間取引にしても、大口の取引先は優先的に受け付ける。多少、単価が安くても、納期が短くても「かしこまりました」と受け付ける。一見の客や依頼者には不愛想に応じるのに、大手や役所の仕事になると平身低頭している経営者を見ることも多い。とにかく、誰もが、意識しているかいないかは別として、差別というものを行っている。先日、新宿の二丁目で老舗の「レズバー」が“元男性の女性”の入店を拒否したとして問題となったらしい。ややこしいので単純に書くが、要するに“生まれつきの女性”でなければ入店させずにやって来た、という主張からだ。けれども、拒否された人たちなどが抗議して、結局、店側が謝罪する形となった。場所柄からも「差別だ」という抗議が出たのも無理からぬ話ではある。ただ私は思うのだ。仮に、そういう“抗議”があって是正されたとして、果たして本当に店内の女性達まで受け入れていくかはわからない。アメリカの“黒人差別”が良い例であるが、もう“人種差別撤廃”から何十年もたっているのだが、未だに、それは無くなっていない。黒人だけでなく、近年は“黄色人種”や“中米人種”も排撃される。トランプ大統領誕生以降「白人至上主義」運動が再び強まっている。極端な“差別”はもちろん是正すべきだが、人間が持っている“本能的な差別”までも「罪」としてしまうと、かえってその反動のようなものが「陰湿なイジメ」につながるような気がして私は怖いのだ。

「透明人間」からのプロポーズ⁉

2019-06-09

広い国土を有するアメリカや中国と、比較的狭い面積の日本やヨーロッパ諸国とでは、その生活感覚とか恋愛心情とかも微妙に異なっているような気がする。広い大陸型の感覚や心情は、総じて大雑把である。何しろ国土が広いのだから、繊細な心情など育ちようもない。だから多分このような発想に、誰も“違和感”を抱かないのだ。中国における新興のIT企業が、このほど「デリバリー用ロボット」を年間10万台目指して生産を開始した。そのアピール動画が公開されたのだが、はるか彼方に暮らす恋人の元へデリバリー用のロボットが大切なものを届けに行く。その大切なものとは“花束いっぱい”と“プロポーズのメッセージ”だ。……確かに、大切なものではある。けれども、デリバリー用ロボットは当然のことながら“無人”である。無人だが、ちゃんと間違えずに本人の家を特定し、彼女の部屋のチャイムを鳴らす。画像に映っているのは無機質なロボットだ。ロボットと言っても「顔」などはない。必要ないからだ。デリバリー用の“品物”を届けるのが役目だからだ。そのロボットに対して玄関を開くと、無機質な車台が中に入り、音声だけで顔もない車台から「プロポーズの言葉」が述べられる。そして、荷物を開けば花束が入っている、という仕組みだ。これを「PR動画」として制作し、中国とアメリカとでは何の“違和感”も持たずに受け入れられている。多分、この動画は多くの中国人やアメリカ人に、何百キロ遠く離れていても、恋人に“愛のこもったプロポーズをすることが出来る”と思わせたことだろう。そうでなければ、年間10万台の生産を目指す、というアピール動画にしないだろう。繊細な心を持っている日本人には、この“無機質なロボット”が…というか、せめて「顔」くらい着けろと言いたくなりそうなロボットから、“プロポーズのメッセージ”を贈られ喜ぶ女性がいるだろうか。何かが違うような気がする。箱から“花束がいっぱい”出て来たとしても、それで単純に嬉しがるのは、中国やアメリカの女性達だからなのではないだろうか。日本女性なら、まず、その無機質さに“心寂しい”思いになって、どうして直接花束を手渡そうとしないのか、直接、自分の口から述べてくれないのか、ぬくもりの感じられない“プロポーズ”に素直に喜ぶ女性を想像することが出来ない。朝の経済番組でロボットの「サキちゃん」が今日の株価予想をする。そのロボットは一応顔はついているのだが、それでも「人」として扱うのはあまりに不自然だ。おそらく日本人なら誰もがそう感じている。それでも、何十年か先には、日本人も同じようにデリバリーで“プロポーズ”するようになるだろうか。日本人が遅れているのか。中国人がいびつに進みすぎたのか。何十年か先、答えが出ている。

テロリスト首謀者は「日本人オザキ」か⁉

2019-06-08

“信じたくない事実”というものが時々報道される。これなどは、その代表的なニュースだ。日本人オザキが2016年ダッカで発生した24人が殺害(日本人7人含む)された“ISイスラム国”によるテロ事件の首謀者だったという報道だ。彼は、その後、シリアのイスラム国拠点でアメリカ軍により拘束され、現在はイラク北部スレイマニヤに移され、アメリカ軍の監視下にある。彼モハマド・サイフラ・オザキはバングラデシュの出身である。だから純粋な日本人なのではない。けれども2002年に日本政府からの奨学金制度を利用して日本に入国し、立命館アジア太平洋大学へと留学した。問題はここからなのだ。実は彼はイスラム教徒ではなく、元々はヒンドゥー教徒だった。ところが日本に来てイスラム教に目覚めた。そしてイスラム教に改宗し、そのあとすぐに日本人女性と結婚した。そして卒業した立命館大学で准教授まで上り詰めた。日本人女性と結婚し、日本の大学で教える立場となって、国籍も「日本」に変えた。日本人オザキが誕生した。子供達も当然イスラム教徒となった。こうして、準備(?)が整った2015年オザキは大学には無断で日本人妻と子供達を連れて日本を出国、ブルガリアを経由してシリアに入り「イスラム国」のメンバーたちと合流した。そして、その後すぐに自国バングラデシュ内でテロの実行犯たちを組織したのだ。24人が犠牲となった“ダッカのテロ事件”が有名だが、それ以外にもいくつかテロ事件を起こした。何度も言うが、彼は日本に来るまではヒンドゥー教徒だった。そのことは、日本からの帰国時に髭を蓄え“改宗したのだ”と知った、と父親が証言している。日本でイスラム教徒となって、日本人妻と結婚し「日本国籍」を取得、日本に居ながら“ISのメンバー”となっていたらしい形跡もある。実は、アメリカ軍の空爆などによって、彼の日本人妻と子供2名は殺害されたらしい。そして、遺された子供達は“邦人保護”の観点から日本に帰国しているとの情報もある。怖いのは、テロの首謀者とされる元立命館大学の準教授が、日本で師匠ともいうべき人物に出逢ってイスラム教に改宗し「イスラム国」に合流している点だ。その子供達が戻ったなら、その師匠と接触する可能性はないのか。いや、その子供達でなくても、日本には数こそ少ないがイスラム教の人達はいる。多くのイスラム教徒は平穏で真面目な信仰心の持ち主たちである。けれども、テロリスト首謀者を産んだ師匠は“新たなオザキ”を誕生させないと誰が言えるだろうか。

「友達5000人」という“寂しい大ぼら”

2019-06-07

相方の矢部太郎氏と組んで「カラテカ」を名乗った吉本興業の芸人入江慎也氏が6月4日付で“吉本”を解雇された。雑誌報道を受けて本人に問いただし、事実関係を認めたことにより、即刻“解雇”となった。今や「吉本興業」は大企業であり、社会的な“犯罪集団”との関りは許すことが出来ない。雑誌報道は2014年末に行われた“振り込め詐欺集団”の忘年会において、芸人との仲介役を担ったということでの処分である。しかも、それは会社を通さず行った“闇営業”であったことも怒りを買った。本人は「振り込め詐欺集団」であることを知らなかったと述べたようだが、会社を通さず“営業斡旋”をしていた人物だけに信用はできない。「カラテカ」の今後がどうなるのかについては判明していない。最近は、どちらも単独での仕事がほとんどだったようだ。ひょうひょうとした矢部太郎氏とは対照的に、いつの間にか「イリエコネクション」という会社を経営していた入江慎也氏の方は、その幅広い人脈から「友達5000人」というのが“売り”であった。けれども、本人が自分の口から「5000人」と“大見得”を切った時から、私はこの人物は「どうしてそんなホラを吹くのだろう」と不思議だった。彼が、どういう基準で「友達」を定義していたのかは知らない。けれども、何をどう考えたって、5000人など友達に出来るはずがなかった。もし、これが「仲間が5000人」というのなら、まだ話として理解は出来る。けれども「友達」という時点で「こいつはバカなのか、それとも嘘つきなのか」と思ってしまう。一日に付き一人か二人会う形をとったとして、5000人と会うのには十年もの年月がかかる。つまり、5000人も友達がいたなら、その友達とは十年に一度会えるか会えないか…になってしまうのだ。しかも、普通に仕事をしていれば、その会える時間はせいぜい3~4時間だ。十年に一度、3~4時間だけ一緒に居る関係を普通「友達」とは言わない。百歩譲って、メールのやり取りだけでも友達じゃないか、というなら5000人に対して一月に2回ずつメール交換するだけでも毎日300人以上とやり取りをしなければならず、事実上不可能なのだ。それに、友達というのは“数が多ければ良い”というものでもない。むしろ「悪友」ならばいない方が良い。そういう“良くない友達”の何人かに“振り込め詐欺集団”がいたのではないのか。相方の矢部太郎氏の方は自分が引っ越した先の“祖母のような年齢の大家さん”と友達になった。その結果、そのありのままの関係を漫画にしたらベストセラーとなった。誰も友達がいなかったから“優しい大家さん”と友達になれたのだ。

「性的虐待」からの「安楽死」は正しいか⁉

2019-06-06

もし、同じようなことが日本で行われることになったなら、マスコミや世論はどう反応するのだろうか。そう考えずにはいられない出来事が6月2日、オランダで秘かに実行された。17歳の少女ノア・ポートベンさんが、過去の性的虐待やレイプの記憶から逃れられず、心的外傷後ストレス障害=PTSDを発症、さらに“うつ病”や“拒食症”まで併発し、生きる気力を失って「安楽死」を選択したのだ。彼女からの要請を受けたオランダの専門医は、彼女の権利行使を妥当と判断して「安楽死」の薬剤を与えていた。彼女は、自らのインスタグラムの中で数日中に安楽死すると予告し、その予告通り6月2日に自宅リビングで実行したのだった。つまり、彼女はきわめて合法的に「死」を選択した。「一時的な衝動なのではない」と彼女は述べている。確かに、そうなのかもしれない。それでも、その選択は「正しいことなのか」と問いかけてしまう。医療上のシステムとして、オランダでは2001年から「安楽死の権利」が認められるようになった。日本人の多くも、それを知っている。ただ、だから“正しい選択”だといえるのだろうか。亡くなった彼女は自伝的作品を出版している。それによれば11歳の時に性的虐待を受け、さらに14歳の時にレイプされた。その結果、PTSDを発症して、その苦悩・苦痛から逃れられなくなった。彼女は「安楽死」を「何年も戦った末の選択」だと記述している。そして安楽死の可否を決める専門医も、彼女の判断を「妥当」とした。その“耐えがたい苦痛”から医療的には「逃れる術がない」と結論付けたのだ。本当にそうなのだろうか。少なくとも、彼女の病気の根底にあるのは「現在の事象」ではない。「記憶」の部分のみである。もし彼女の頭脳から、その記憶だけを消すことが出来れば、苦悩からも解放される。そうだとすれば、彼女はまだ17歳である。今後の医薬の発達によって、或いは医薬ではなくても、精神医学とか、宗教とか、呪術とか、催眠療法とか…何かが発見できるかもしれない。特に高度な催眠療法が可能なら、その部分だけの記憶を消して、哀しみや苦悩を消して、生まれ変わらせることは可能だったのではないだろうか。運命学的には、彼女の才能とか資質を見極め、その部分に意識を集中させることで、少なくとも“生きる気力”は取り戻すことが可能だったような気もする。もちろん「安楽死」を選択した彼女を責めることは出来ない。けれども、何かしら、その選択が「正しかった」とは言えない私がいる。

「美穂」と「スズキ」の“ハダカ”の勝負⁉

2019-06-05

中々ユニークなストーリーだとは思うものの、果たして2019年の今“こういう映画”が世間に受け入れられるのだろうか、と考えてしまった。それが松尾スズキ氏が監督・脚本・主演する「108~海場五郎の復讐と冒険」という作品で、この映画で彼の妻役を演じるのが中山美穂氏だ。彼女演ずる「妻」は“不貞を働く”ことで離婚という筋書きなのだが、法律的に財産の半分は“妻にも権利がある”という部分が主人公には納得いかない。どうして不貞されたのに財産を分け与えなければいけないのか。そこで彼は、或る結論に辿り着く。財産を使い切ってしまえばいい。そして、そのお金で“自分も不貞を働けば”平等(?)になる。こういう“奇妙な発想”を実行化していく過程を描いたのが「海場五郎の復讐と冒険」のようである。当然のことながら、この映画で「妻」となる中山美穂氏は“ハダカ”となる。そういう役どころなのだから当然である。しかも、本人の方から望んだ役どころであるらしい。かつて“風邪薬のCM”で清潔感が印象に残った中山美穂氏ももう49歳。“ハダカ”で客を呼べる年齢ではない。この映画は一応“復讐劇”であるから、彼女以外にも多数の女優陣が“ハダカ”となる。よって「R18」の指定作品だ。主演の松尾スズキ氏も、当然ながら“ハダカ”となるが、彼はこの映画を完成させることに必死で“金を使い切り”文字通り「裸」となった。それでも製作費が途中で不足し、駆けずり回って5年という歳月を要したそうだ。「5年間をかけた大作」と言えば聞こえは良いが、要するに“お蔵入り”するかギリギリの制作費の中で完成までこぎつけた作品のようである。まあ、そういうわけで松尾スズキ氏も中山美穂氏も“ハダカで勝負”している作品であり、その中身も文字通り“裸になっていく”内容で、懐に余裕のあった“バブル期”であれば大ヒットしたかもしれない映画なのだが、この“経済の見通し危うい”現代において、今秋に公開予定だが果たして“お寒い状態”にならないことを願うばかりである。

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