8月, 2016年

消えていく「メダル」の価値

2016-08-18

何かがおかしい、と感じていた。「リオ五輪」報道に関してだ。“日本のメダルラッシュが続いています”とか、“今日もメダル獲得のニュースです”とか、興奮口調のMCたちが“リオ五輪”番組を盛り上げようとする。もちろん、日本人がメダルを獲得することは、同じ日本人として私自身もうれしい。それはそうなのだが、何かが“違っている”ように感じてならなかった。本当に「リオ五輪」において、日本国は“素晴らしい活躍”をしているのだろうか。実は、そうでもないのだ。まず、メダル数だが、日本は今のところ世界ランキングとして“第10位”であり、前回の“第11位”とほぼ同様の位置にある。例えばアメリカだが現在までに“84個のメダル”を得ていて、中国やイギリスも“50個以上のメダル”を得ている。日本は“29個”だ。ちなみに前回の日本のメダル総数は“38個”だ。開催地ブラジルの社会派雑誌による事前の“メダル獲得予想”では、日本は「金メダル14個」とされている。それに対して現在まで「金メダル7個」は、誰が考えても“多い個数”ではない。このように、冷静に見比べれば、今回のオリンピックで特別“日本勢が活躍”しているわけではない。ただ“新たな分野”で、メダルを獲得し始めたのは事実だろう。それにしても、この“もやもや感”は何なのだろう。まてよ。“メダルの数”が多すぎやしないか。一体、何百個のメダルが用意されているのか。我々はどうしても「オリンピック」というと、“世界一”とつなげて考える習性がある。確かに“世界一”なのかもしれないが、いつの間に、こんなに“競技数”が多くなったのだろう。何百個もメダルが用意されているということは、何百個も“競技種目”があるということで、オリンピック村へ行けば、数千人ものメダリストたちが“うようよしている”ということになる。そういうのって、本当に“世界一”なのだろうか。なんとなく「ノーベル賞」との“違い”が感じられ、“世界一”と盛り上げ、巨大な“マネー”がうごめいている「危険地帯」のようにも…。

中途半端が招く“日本の窮地”

2016-08-17

円が再び“危機”を迎えようとしている。つまり、1ドル=100円を切って“円高方向”へと加速しそうなのだ。何度も述べているように「輸出国・日本」は“円安”に向かわなければ国家が潤わない。「通貨安競争」と言って、どの国でも自国通貨を導く政策を模索しているが、とりわけ日本はその“高・安”がもろに経済を直撃するようにできている。その影響は一番先に“日本の株価”を低迷させる。日本株は、外国人投資家の所有比率が高いので、企業収益が損なわれる“円高”は、外国人投資家から“売り”を浴びせられる。つまり株価が急落する。株価が急落すると企業価値が下がるので、“不安視した日本の投資家たち”が“売り”に追従する。こうして、ますます株価は急落する。しかも、ここで重要なのは、外国人投資家たちは「円」ではなく「ドル」換算で“日本株”を売買していることだ。ドル換算で見ると、円高なので“よほど下げないと”下がった印象を与えない。だから極端に下げるのだ。日本人投資家は「円」換算なので“急落した形”と映る。したがって“日本株”は、円高になるほど外国株よりも“下落幅が大きい”のだ。株価が下がると“不景気”になって、物が売れなくなり“デフレ”に逆戻りとなる。当然、企業収益が減るので、給料も減り始めるという図式だ。円高を阻止するには、日銀の“大胆な追加緩和”と、政府の“大胆な規制改革”が必要なのだが、そのどちらもが中途半端で、今一つ効果が出ていない。特に「マイナス金利」は中途半端にやるから効果が出ないので、やるなら“批判覚悟”で大胆に推し進めなければ、海外のヘッジファンドから“せせら笑うような円買い”を浴びせられる。中途半端な日銀と政府の“弱腰政策”が、自らを“袋小路”に追い込んでいる。

死者の住まい「陰宅」という考え方

2016-08-16

私事での必要性から、現代の“葬儀”や“お墓”に関して、その専門家や担当の方から、いろいろな違いや事情をうかがってきた。そういうことに関して、これまで深く調べたことがなかっただけに、現代的な“在り方”についても考えさせられたし、実に“さまざまな形”が存在していることを改めて知らされた。私個人は両親を早くに亡くしているので、自分自身ではそういうことに直接タッチせず今日まで来ていた。だから昔の“一般的な形”しか知らなかった。日本人の場合、こと「冠婚葬祭」に関しては“昔ながらの風習”を、そのまま引き継いできたものが多い。近年に至って、家族制度が大きく変貌し、経済事情も加わって「冠婚葬祭」全体が簡素化され始めている。考えてみれば「婚」の部分だって、私自身は最初の時は簡素ながらも教会で式を挙げたが、二度目の時には入籍だけで済ませた。私の方はそれで良くても、妻の方は“心寂しかった”に違いない。ただ冠婚葬祭は時代とともに変遷していくもので、何が“正しい”とか、“望ましい”とか、一概に言えるようなものでもない。昨日は“終戦記念日”だったが、海外の戦地で亡くなられた方々は、遺骨の収集さえも十分でなく、今日を迎えている。ヒロシマやナガサキの方々にしてもそうだろう。人は、それぞれの状況の中で“精一杯の儀礼”を果たすしかないのが実情なのだ。運命学上では、生きている者のことを“陽者”とし、亡くなっている者のことを“陰者”とみなす。したがって、我々の住まいは「陽宅」と呼ばれ、故人の住まいは「陰宅」と呼ぶ。当然、陰宅は“墓標”を指す。また仏教徒であれば“仏壇”も加わる。神道の方であれば“神棚”も加わる。つまり、そういう信仰を持っていた方の場合は“仏壇”や“神棚”が、日頃の死者と生者を“繋ぐ架け橋”となる。自宅に“仏壇”などない場合は“墓地・墓標”が“死者の住まい”であり、同時に“架け橋”となる。よく“宗教儀礼”にことのほかうるさい人がいるが、形式で“故人が悦ぶ”わけではない。その時における“精一杯の儀礼”や“心からの供養”こそ、双方にとって“魂安らぐもの”として受け入れられるに違いない。

日本の1000万人が“予備軍”として控えている「病」

2016-08-15

全国に110万人以上の患者がいて、さらに1000万人以上の“予備軍”が控えているのが「アルコール依存症」です。その比率の中で、最近目立って増加しているのが“女性のアルコール依存症患者数”で、ここ十年で二倍となったようです。大体、この病気は男性より女性の方が“掛かりやすく”できています。体質的に女性の方が肝臓が小さく、血液量も少なく、女性ホルモンも多いからです。肝臓はアルコールの毒素を分解し、血液量は体内にアルコールがとどまる時間と関係し、女性ホルモンは代謝を悪くさせるからです。つまり、女性は“酔いやすく”、“醒めにくく”、翌日まで“持ち越しやすい”からです。ところが、この基本的な事実を知らない女性が多いのです。だから男性と同じ程度に飲んだなら、同じ程度の“状態なのだ”と勘違いしがちなのです。女性が社会的に活躍し、男性と同等の立場に立つ機会が増え、自然と“酒をたしなむ女性”が増えてきました。普通に働いて、普通に“酒場”に立ち寄り、そのあとで帰宅する女性も多くなりました。つまり“生活パターン”が、一昔前の「おやじ型」女性も多くなってきたのです。たまに“飲む”程度で「アルコール依存症」にはなりません。仮に毎日飲んでも、コップ一杯程度であれば、むしろ“百薬の長”として機能する場合もあります。ここ十年で二倍に増えたのは、そういう“飲み方”ではないからです。俗にいう「キッチンドリンカー」と呼ばれる主婦層は、急激に増えていませんので、問題は“働く女性たち”なのです。普通に仕事はしているが“人知れず悩みを抱えている”女性たちが“急速に増え始めている”というのが実態なのかもしれません。毎日のように“飲む”のは、それだけ“経済力”は持っている証拠でもあります。必ずしも“孤独に飲んでいる”とは限りません。表面上“楽しいお酒”、“仲間と集うお酒”、“ストレス発散のお酒”でも「依存症」の“背後霊”は、密かに寄り添っているのです。

“能力”と“結果”の間に潜むもの

2016-08-14

オリンピックを見ているとよくわかるが、“能力”=“結果”ではない。その中間に“+アルファ”として潜んでいるものがある。それを多くの人は「運」という。もしも、“能力”と“結果”とが、完全に“イコール”でつながるなら、オリンピックの面白さは半減してしまう。オリンピックだけでなく、個々の“人生の軌跡”としての面白さや不思議さも半減してしまう。極端な話、学校での“成績の順序”が、そのまま“社会的な成功度合い”とか“地位・名誉の獲得”とかを定めるのであれば、それ以降の努力は無駄になるし、能力的に劣っている人には“成功”や“出世”や“勝利”は、ありえない、ということになる。ところが“現実”はどうだろう。学生時代は“落ちこぼれ”だった奴が出世しているとか、事業を起こして成功しているケースはまれではない。逆に、学生時代は常に成績がトップだったのに、いつしか“落ちぶれ”悲惨な境遇にあることも珍しいことではない。奇妙なことに、われわれが生きていく過程において、“能力”=“結果”とならないことは、誰もが経験的に実感している。その間には「運」と呼ぶ魔物が潜んでいることも、多くの人たちの見解は共通している。いや、正確にいえば「運」だけとも限らない。“性格”だったり“容貌”だったり“環境”だったりも、“+アルファ”として加わることがあるからだ。さらに“努力”というものも、忘れてはならない。これらが総合的に加わって、個々の人生は“あぶりだされて”来る。もちろん、社会的に“成功・出世”したからと言って、それがそのまま“幸福”とイコールかといえば、そうでもない。奇妙なことに“成功”や“出世”で得られる「幸福」は、ほんの少しでしかない。とびぬけた“成功”や“出世”などしなくても、十分に“幸福をかみしめている”人たちはたくさんいる。結局、神様は良くしたもので“能力”だけでは“幸福を得られない”よう実に巧みな“運命のプログラム”を個々の人生に与えている。

昔を連れてくる「真夏の青い空」

2016-08-13

「真夏の青い空」は不思議だ。ただ「青い空」なのに、僕を“昔へ”“昔へ”と引き摺り込んでいく。

多分、あの頃の色と同じなのだ。あの頃の空と同じなのだ。だから、“記憶”が前に出て来たのに違いない。

ぼくは、あの時も「空」を見ていた。それも窓からだった。二階の窓だった。家の向いが食料品のお店で、店先には八分の一に切られたスイカが並べられていた。僕は食べたことがなかったので、その美しさに魅了されていた。

僕はいつも一人だった。窓から「青い空」ばかり見ていた。母は病院に居た。

商店街の通りだったので、いつもどこからか、大きな声が聞こえていた。だから、うるさかった。

「青い空」を見ていると、僕はいろいろな人間になれた。少年剣士とか、少年探偵とか、少年レスラーとか、そういう人間だった。かわいい少女を救ってあげる役だった。時々“悪者”が僕を襲ってきた。僕は必死に戦い、必ず、最後は“正義だから”勝つのだった。いつも、そういう戦いをしていたから、忙しかった。

僕は一人で「空」を見ていたけど、本当は“戦いをしていた”ので、“美しいスイカ”をそんなに食べたいとは思わなかった。部屋の中は薄暗く、蒸し暑くて、誰もいなかったけど、僕は忙しかったので、寂しくはなかった。

或る時、僕は少年剣士だったのだが、“悪者”に“般若の仮面”をつけられてしまった。これをつけられると、その心まで“般若”となって悪人が住み着き、次々と少女たちを捕まえ、悪徳代官に売り渡す役に代わるのだった。僕は必死に仮面をはがそうとするのだが、はがれなかった…。

そのあと、どうなったのか、よく思い出せない。確か、仮面をはがすためには、何かを探し出さなければならないのだが、それが何だったかも、憶えていない。“美しいスイカ”は、クレヨンで書いたような気がする。

あの「青い空」は、どこへ行ったのだろう。この12階から見える「空」じゃない。

僕の「青い空」は、これじゃないんだ。似てるけど、違うんだ。“美しいスイカ”もないし、“街の大声”も聞こえない。第一、僕はもう“正義の味方”なんかじゃない。“勝てない”し、この“仮面”も、なぜだか剥がれない。きっと、あの時から“仮面”をつけたままだったんだ。

やがて「大脳観相術」が誕生する!

2016-08-12

「アメリカ国立衛生研究所」というところが出資して、総計420名の大脳皮質をさまざまな角度からデータ収集し、これまで知られていたよりも詳しく“脳の各部位”を調査した結果、大脳皮質には右脳にも左脳にも“180箇所”それぞれの“部位機能”が存在していることが判明したという。これまでにも“83箇所”は一応確認されていたが、今回の実験データで“97箇所”もが新たに追加され、より精密に“大脳における各領域”の役割が鮮明となったことになる。今回の研究で明らかとなったことの一つに、“各部位の位置や大きさ”は一応定まってはいるものの人によって“微妙な違いがある”ということが判明したらしい。“この事実”は、人相術上の“顔面部位の研究”や、手相術上の“掌丘部位の研究”にも同様のことがいえるので、占術研究の上からも注目すべき部分であった。実際、脳科学者には申し訳ないが、私に言わせれば“大脳皮質の研究”というのは、“顔面部位の研究”や“掌丘部位の研究”と基本的には同一なのだ。確かに“大脳皮質の研究”は、脳神経から生じてくる病気などに対し多大な功績を生み出すのに違いない。現在はコンピュータ画面上で“画像判別”できる時代なので、この研究がより進むことによって、大脳皮質を詳細に観察しただけで、どの方面の“才能”が埋もれているか、どの“機能”が低下しているか、どの“部位を刺激”すれば失われていた機能が甦るか、判別できるようになるのに違いない。ただ当たり前の話だが“大脳皮質”は直接見ることができないので、実際にはなかなか面倒である。本当は同じような“研究実験データ”を人相の“顔面部位”や手相の“掌丘部位”で行ってもらえれば、それぞれの“詳細部位が判明”してより簡単に誰もが“自分自身を判別できる”ようにならないだろうか。例えば人相の顔面部位というのは研究者によって異なり、“28箇所”、“36箇所”、“45箇所”、“61箇所”、“67箇所”、“70箇所”と実にさまざまである。アメリカのように資金提供してくれるところ、参加してくれる科学者と観相家、コンピュータ技術者、さらには“協力してくれるデータ提供者・数百名”がそろわないと、実際には困難な研究なのだが…。

「英語」&「日本語」が世界の“共通語”となる日

2016-08-11

たまたまネット検索をしていたら「perfume」のアメリカ公演の映像配信に行き当たった。今や「世界のperfume」である。ライブ会場は超満員でCGなどによるショーとしての演出効果が素晴らしい。それにしても彼女たちの歌は“日本語”である。英語ではない。ただしタイトルには“英語表記”のものが多い。ユニット名も“英語表記”だ。どうやらココが重要らしい。世界を相手に音楽活動をする場合、ユニット名とタイトルとを“英語表記”にしておけば欧米人たちはYouTubeで見てくれる。或いは聴いてくれるのだ。ダンスなどのパフォーマンスが伴っている場合は確実である。日本のアニメ・マンガが世界中で配信され、人気を得たのも“言葉の壁”がないからだ。時として“日本語”の方で視聴して、それによっていつの間にか日本語をマスターした外国人も多い。つまり“好きになる”と、言葉の壁は“壁”でなくなる。インターネット社会は基本的に“英語配信”を優先するので実質的に“世界共通語”としての役割を担う形となっている。YouTubeによって、日本のあらゆる“商品”は世界に浸透し、観光客も爆発的に増えた。日本では、ここに至ってようやく小学生からの英語教育が必修となった。ずいぶん遅い。実際には2018年から“正式教科”となるらしい。私など“もうとっくに教えているもの”と思っていた。言語は必要性があると習得するが、必要性を感じないと習得しないものだ。日本に英語圏の外国人居住者が増えてくれば、ごく自然に英語が普及していくことだろう。英語圏の外国人との“国際結婚”も、自然に普及させる良い方法である。発音だけで言えば、中国語などに比べると、日本語はそれほど難しくはない。日本の“芸術”や“文化”が世界的に普及することで、ごく自然に「日本語」も「英語」と同じように“世界の共通語”として使われ始める日が、100年後くらいに実現しているかもしれない。

多様化していく「女子スポーツ」の世界

2016-08-10

たまたま病院の待合室でTVの五輪中継を見ていたら、日本の女子選手たちの競技模様をダイジェストで伝えていた。その中に「女子ホッケー」と「女子バスケットボール」の映像があった。「女子バレー」や「女子サッカー」については誰もが知っているが、ホッケーとかバスケットボールは“男子のスポーツ”と勝手にイメージしていた私は、女子の部門もあって、しかも日本からも“女子競技”に参加していた選手たちがいたことに驚いてしまった。そうなのだ。人気のあるスポーツの映像は何度も流すが、こういう“マイナー競技”は滅多にTVで流さない。せっかく“日本代表”となって「リオ五輪」に参加しているのに、しかも、そんなに“弱くない”のに数秒間のダイジェストだけで終わらせてしまう。だから多くの人は見逃していて、誰もオリンピックに参加していた“女子競技”だと思わない。けれども、彼女らにも家族がいて、友人がいて、恋人がいるかもしれない。マイナーな女子競技であればあるほど、強化費用も乏しく、支援者も乏しく、練習時間も十分に与えられない。そういう中で“世界に参加する実力”を磨き、日の丸を背負って“晴れの舞台”にやってきているのだ。もう少し“映像を流してあげる”配慮があっても良いのではないだろうか。それにしても、こういうマイナー競技は、どうやって選手たちを育成しているのだろう。バレーボールやサッカーの場合、スポンサー企業があり合宿で強化練習に取り組むが、マイナー競技の場合、そういう資金はどこからも出ていないはずである。そういう中で必死に練習して“晴れ舞台”で競技しているのに数秒間のダイジェストではあまりに寂しい。それでも日本のどこかで、こういう“マイナーなスポーツ”で汗を流す女子たちがたくさん出てきたことは、なんと明るくすがすがしい現象ではないだろうか。

“衰え”と“責務”の間で…

2016-08-09

当たり前の話だが人間というのは徐々に“衰え”ていく。誰でも“衰え”ていく。ただ或る時点までは、それは“一般的な観念”であって、あまり“実感”は持たない。持たなくても済む。けれども、何かをきっかけにして、誰もが自らの“衰え”を実感する。どうしようもなく“実感”させられる時が来る。この時、或る種“責務”についている人は、その“責務”を果たしていくことが徐々に“困難になっていく”かもしれない…という予感を持つ。世の中に対して大した貢献もしていない私でさえ、そのような感覚を持つのだから「天皇」であればなおさらである。今回の「生前退位に対するお気持ち」は至極当然のことで、或る程度の年齢に達している人であれば、誰もが共感する“気持ち”であろう。何かに「ご公務のスケジュール表」が出ていたが、月に4~5回の休日しかない。労働基準局に訴えたくても、訴えられないのが「天皇」なのだ。もっとも、世の中には“定年退職”となって、その後で勤めに出たくても雇ってくれるところがなく、結果的に“毎日が日曜日”となっている人たちもいる。そうすると心身とも“衰え”が早い。あっという間に老けてしまうものだ。人間、義務的に“働かざるを得ない”環境下にある方が、或る程度“衰え”は防止できる。そういう意味では自分の“責務”をもっている方が、充実した晩年といえなくもない。さまざまな理由から“生まれてきた時点”で、すでに或る程度「運命としての人生」が定まっている人は、当然その“責務”を果たさなければならない。今まさにオリンピックで、その中には親の影響下で“オリンピックの申し子”として生きて来たような人もいる。私は「運命の謎を解き明かす」べく生まれたはずだが、何一つ“成果”も得られず、その“責務”を果たすこともできず、もがきながら“衰え”に怯えている。

“たった一人の役割”が何よりも大切

2016-08-08

最近、女性でありながら“社会的に確かな地位・役職”を得ている人に注目が集まりがちである。マスコミもこぞってそういう人たちを紹介しがちだ。もちろん、女性が注目を浴びるのは良いことだし、社会的に活躍する女性の活き活きとした姿は、或る種“手本”として見習うべき部分も多い。けれども、世の中には“そういう人”ばかりがいるわけではない。むしろ、そういう人は“ほんの一握り”でしかない。多くの女性は“総活躍”とは無縁の中に居る。まだまだアルバイト・パート・契約社員になることさえ難しく、専業主婦になれるのでもなく、どこにも属せず、宙ぶらりんな状態で、世間の片隅で“凡庸と生きている”人の方が圧倒的に多いのだ。つまり“華々しく活躍している女性”など、実際には“極めてまれな存在”であることも把握しておかなければならない。では、そういう人たちには“活躍の場”はないのだろうか。とんでもない。そういう人の方が“実際には必要とされている”場合が多い。ただし“華やかな仕事”ではない。華やかではないが、その人にしかできない役割、つまり“たった一人の役割”があるからである。時にそれは、“恋人としての役割”の場合、“妻としての役割”の場合、“母としての役割”の場合などのことも多い。これらは“代役が利かない”からだ。或いは、世間的には“評判がよくない”かもしれないが、俗にいう“お茶を淹れてくれる女性”として、“コピーを取ってくれる女性”として…パート社員として雇われているかのような形も、実はその女性以外だと“今一つ”という場合もある。つまり、本人にとっては“不本意”かもしれないが、そういう意味で“たった一人の役割”を担っている場合もある。私が尊敬していた女性占い師の方は“指名されての占い業務”よりも、“孫のお守り”を常に優先していた。彼女は笑って「占いなんて誰でも変わりはできるけど、孫のお守りだけは私でなきゃダメなの」と言い放っていた。「でも先生を指名されているんですよ」若かった私は、思わず口をはさんだ。「大丈夫、ここに大先生がいるから」彼女は、私を指さして、そういわれ、悠然と帰って行かれた。

紀元前1920年頃、禹王が出現した!

2016-08-07

歴史は徐々に塗り替えられる。特に近年は科学技術の進歩で“過去を遡る”ことが容易になった。その結果、これまで存在したかどうかわからなかったことが“証明される”とか、時代区分として正しいとされてきた年代が“覆される”ケースが多くなっている。このほど米科学雑誌『サイエンス』に中国と米国の共同研究による古代中国・黄河“伝説の大洪水”について、新たな証拠を発見、実際に大洪水が起きていたこと、それは考えられていたより数百年手前の紀元前1920年ころに相当すること、その後まもなく「夏王朝」が樹立されていたこと、それを成し遂げたのが伝説の「禹王」であったことなどが放射性炭素年代測定により証明された。つまり、わかりやすく言えば、古代中国の歴史は“少しだけ前にずれる”こと、けれども“伝説の禹王”は実在し、大洪水も存在し、治水工事の“偉業”も証明されたということになる。ちなみに“年代”はどうしてわかるのかというと、その地層に存在した“3人の子供の骨”の年代測定によって判明している。この測定法が進歩したことで、何千年前からの骨であっても、ほぼ正しい年代が測定できるようになったのだ。人間だけでなく、動物や植物の残存物からでも判別が可能らしい。昔の歴史教科書では「夏王朝」は“伝説の王朝”とされていた。「禹王」も“神話伝説上の王”とされていた。奇妙なことに、その後に成立した「殷(商)王朝」の人々でさえ、その“実在”を疑っていた。なぜなら「漢字」の元になる「甲骨文字」は殷王朝の人々の発明なのだが、彼らによる「禹」の文字は“爬虫類の象形”で描かれていたからだ。昔、ギザの大ピラミッドを“年代測定する”という研究プロジェクトがあった。その結果は、各石段の残留物から採取したのだが紀元前3800年代~紀元前2100年代まで含まれていて、ますます“謎”を深める結果になってしまった。定説では紀元前2500年頃のはずなのだが…。

2016年8月の運勢アドバイス

2016-08-05
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