3月, 2016年

「心の貧しさ」から抜け出す方法

2016-03-18

「経済的な貧しさ」は解りやすい。生活物資に不自由する状態で「衣・食・住」の何かが満たされていないとか、それらの一部、或いは全部が失われているような状態をいう。その「経済的な貧しさ」を克服すれば、人は“幸せ”になれるだろうか。残念ながら、なれない。経済的な“豊かさ”を手に入れても、それだけでは人は“幸せ”になれないのだ。「心の貧しさ」から脱却できないと、人は“幸せ”を感じられないようになっているからだ。「心の貧しさ」とは、精神的に満たされていない状態で「愛」や「悦び」や「生きがい」の何かが不足しているか、或いはその全部を失っている状態をいう。これらの厄介なところは、必ずしも努力をすれば“手に入る”とは限らないところで、特に「愛」に関してはそういう部分がある。「生きがい」というのも、努力で得るものではなく、日常の中から“見つけ出すもの”で、それがなくても生きてはいけるが“充実感は乏しい”のが常である。「愛」は、必ずしも“愛されること”ばかりを意味するのではなく、“愛すること”を持続できるなら、それで十分に満たされることがある。「悦び」は日常の中の“愉しみ”で、趣味的なものを持っているとか、娯楽が在る生活であれば十分に満たされる。「生きがい」はその時々で違ってくるもので、時に「愛」や「悦び」と重なり合っていることもある。

コンピュータが奪っていく職場

2016-03-17

近年、特にヨーロッパで若者の失業率が急速に悪化している。中でもスペイン、ギリシャ、イタリア、スエーデンなどが著しい。25歳までの若者の失業率の方が、中高年の失業率よりもはるかに高いのだ。スペインなど若者の失業率は50%を超えている。二人に一人が“職を失っている”という状態なのだ。アメリカでも近年、さまざまな分野で“IT化”や“シェア化”が進み、雇用環境が厳しくなってきたことでストライキやデモが頻発している。日本の若者の失業率は、他の先進諸国に比べるとそんなに悪くない。数字だけでいえば、まだ“救いのある雇用環境”だ。ただ日本では「ニート」や「引きこもり」という形での“実質的な失業者”が多いので、数字上どう反映されているのか疑問だ。どうしてこうなってしまったのか、答えは簡単で先進国においてはあらゆる職種でコンピュータ化が進み、ロボット化が進み、少ない人手で“多くの仕事をこなす”ことが可能となってきたからだ。つまり、これまでは“若い人達”が行ってきたような“領域の仕事”を、コンピュータが黙々と効率良く正確に行えるようになったからだ。世の中が進んでいくことは本当に良いことなのだろうか。若者たちがもっとも大切にしている「IT機器」が、実は自らの職場を奪っていたのだ。

「寄り道」が、“深みのある人間”に変える

2016-03-16

どんなに順調な人生を歩んだ人でも、人生に一度や二度、本来の道を間違えるとか、一時的な「寄り道」をしてしまうことがあります。時には自ら“そういう道”に好奇心から飛び込み、履歴書的には「空白」となりやすい一時期を送ることもあります。それが予期せぬ「左遷」や「リストラ」、「大病」や「事故」、「失恋」や「不倫」、「クスリ」や「イジメ」、「借金」や「保証人」から生まれることもあります。複雑な現代の社会事情が、順調だったはずの「行く手」を塞いでしまうことがあるからです。いったん本来の道を外れると、元に戻すのは容易なことではありません。仮に自ら外れていった場合でも、その「寄り道」から引き返すには、思うほど簡単ではなく“勇気”と“時間”を必要とするのが普通です。人生の一時期に、自らが“そういう道”を経験している人は、決して理屈だけで人を“攻撃”することがありません。黙って許したり、見守ってあげる“人間としての深み”を備えているのが常です。俗にいう「正論」だけで、人は生きていけないことを体験的に知っている人は、人間としての“奥行”が備わっているのです。

一進一退の中から生まれる「発見」

2016-03-15

全ての「生命」には“波”があります。「運命」にも“波”があります。物事が順調に進まないからと言って、簡単にあきらめるとか、すぐ投げ出してしまっては「大きな目標」は達成されません。昔から成功の条件とされた「運・鈍・根」の三原則は生きているのです。もちろん「運」は、“運気の流れ”や“タイミング”です。「運」の良い悪いよりも、運気の“良い時”に照準を合わせることが第一です。「鈍」は文字通り“鈍感さ”や“愚直さ”で、あまりに“要領良く”立ち回ろうとする人はかえって成功できません。腰を落ち着けることが“成功への第一歩”となります。「根」は文字通り“根性”や“根気強さ”で、特に“一進一退”を繰り返しているような状況の中では「根」が何よりも重要です。つまり、何事でも先を急がず、じっくり腰を落ち着け、根気よく物事を続けていれば、必ず“運気の良い時”が回ってきて、それまで見えなかった“希望の光”が見えてくるよう変わっていくものです。また一進一退を繰り返す時に、それを冷静にあらゆる角度から分析することで、最初は解らなかった“法則性のようなもの”を発見することが出来ます。

お腹の上に「青い球」が浮いている

2016-03-14

東日本大震災から5年たって、さまざまな心霊体験が語られるようになりましたが、それらの体験記録の中で私がもっとも注目したのは、震災で母親を亡くされた少女の奇妙な目撃談です。その少女は行方不明の母親を探すため連日、公民館に出向いていたそうですが、そこに並べられた遺体のほとんどが、お腹の上に「青い球」が浮いていて、それが共通していたので、なんとなく「みんな一緒だから寂しくないんだ」と理解した、というのです。もちろん、これは古くから「火の玉=霊魂」と言われ、私の幼少期くらいまでは一般家庭でも近所の方が亡くなった時などに「あの家から火の玉が飛んだ」とか、逆に夕刻時など火の玉を見たことで「寝たきりだったおじいちゃん、大丈夫かしら…」などと噂したものです。つまり、人が亡くなると同時に、肉体から“霊魂が幽体離脱”し、それが遺体処理するまで“肉体付近に留まる”ケースと、すぐ天空へと“飛翔してしまう”ケースがあるとされています。公民館の遺体の多くは、近親者に特定されていない状態だったので、お腹の上に「青白く燃える球」として浮いて見えたのでしょう。

偉大なる「手」&「言葉」

2016-03-13

人間が苦境の中で最後に縋るものは「救いの手」と「癒される言葉」の二つです。そして、そのどちらにも言えるのは、もっとも身近な人からの「手」や「言葉」が、本当は一番効果的だということです。「手」には“不思議な効果”があるのです。そっと背中に触れるとか、優しく頭を撫でるとか、力強く引き上げるとか、慈しむように抱くとか…あらゆる場面で「手」が“救い”には必要なのです。幼い頃、誰もが経験した「親に手を引かれる」という行為が“安心感”の象徴であったように、苦境の中で、人は「手」に導かれると、そこに“救いを見出す”ものなのです。それと同時に「魂を癒やす言葉」にも“魔法が宿っている”ものです。苦境の時には“ただ一言”で良いのです。難しい言葉は必要ありません。その状況の中で「魂」を癒やす言葉であれば、「魂」を目覚めさせる言葉であれば、何気ない一言、さりげない一言、くだらない一言、やさしい一言…「魂」に触れる一言であれば、それで良いのです。それだけが良いのです。そうやって、みんな“苦境を乗り越え”生きてきたからです。

占い依頼者との「距離」について

2016-03-12

当然のことながら、占い師は常に何らかの悩みや問題を抱えた相談者や依頼者と相対して仕事を行っている。初めての依頼者もいるが、その多くは過去に“占っている方”で、いわば“常連さん”に属する方も多い。占いの利用の仕方はさまざまで「問題の解決」に利用される方、純粋に「未来の選択」に利用される方、精神的な「心の支え」として利用される方、新たなことへの「心の準備」として利用される方…とさまざまである。そして利用の仕方としては、そのどれもが間違っているわけではない。「占い」に“利用の規約”など、存在しないからだ。初めてでなく、何度目かになる方は、多分それなりの“利用価値”があったから、再び来てくれたのだろう。私はあまり顔を憶えない方で、以前お客さんから「もう四回目なんですから、いい加減、私のこと憶えてください」と叱られたことがある。そういう感じで、記憶力の良くない私は間隔をあけての二度目とか、三度目とかだと、初対面のように思って“同じ占い結果”を話したりする。したがって、よほど個性の強い方でなければ、記憶に残らない。そういう私でも、比較的間隔を置かず何度も来られる方や、若い頃に何度も見ているような方はさすがに忘れない。プロとして占いを始めて、たいした進歩もなく、もう何十年にもなるが、その何十年間にもわたって“占い続けている”ような奇特な方もいる。正直なところ、何十年間も「なぜ私なのか」よくわからない。私の場合、何十年間も通ったからと言って、御世辞ひとつ言うわけでもない。そう、私はそういうのが嫌いなのだ。基本的に誰であろうと、私の態度は変わらない。

よく水商売などだと「一見さん」と呼ばれる初対面の方と、顔馴染の「常連さん」とを分けて扱うような傾向が見受けられるが、私はそういうことが嫌いなので、基本的に誰も分け隔てしない。占い師の中には、長年の常連さんを「友達」のように扱う方もいると聞くが、私にはできない。私生活において“友達になる”ことはできるが、職場である「占いの場面」でそれはできない。というよりも、そうなってはいけない、という思いが私にはある。占いの依頼者・相談者との距離が近すぎると、本来の“占いとしての判断”が難しくなってしまう場合があるからだ。例えば、非常に良くない結果が出た場合、お客さんとの距離間があればそれを正直に伝えられるが、距離間が無くなると正直には伝えられなくなる。いや私の場合は正直に伝えるが、なんとなく気まずい雰囲気になる。だから身内や友達のことを占うのは、本来はあまり好きではない。どちらかと言えば知らない人の方がいい。それに自分自身のこととか、身近な人のこととかはどうしても感情が混じる。それも占いにとっては良くない。私の尊敬する師は「明哲虚心」という表現を使った。占いを行う時には、心の中に「曇り」があってはならないし、自らの「心」が入り込みすぎると判断を乱してしまう。思い込みの判断は失敗の元なのだ。そうはいっても、何度も来てくれる常連さんには、少しでも良い結果を引き出してあげたい、と思う心情が働く。当然と言えば当然のことだ。

私はかねがね「占い」というのは、最終的に「占い師と依頼者の二人三脚」が“ベストな回答”を引き出すものだと思っている。つまり、占いの依頼者が、その占い師に対して全幅の信頼を寄せ、真摯に偽りのない現状を語り、それに応じて占い師が全身全霊で占って“最良のアドバイスと解決策”を見出していく。どちらも「占いの神」に対する“真摯な想い”が一致したときに「最良の答え」が自然に導き出されてくる、システムになっていると思うのだ。占い師に対する全幅の信頼がないとか、真摯に現状を語ろうとしないとか、互いに距離間を抱きながら占うというのでは、決して“ベストな回答”は引き出されない。そういう意味では「占いの神」に対する想いは一致していなければならないし、占いへの「問い・願い」も一致していなければならない。つまり、占い師と相談依頼者とは“占いの場”において友達になるのは好ましいとは言えず、或る程度の距離間は常に必要なのだが、その問題や悩みに対しては“共有観”を持たなければならず、そういう意味では決して距離間があってはならないものなのである。

とりあえずの「願望&目的」が大切

2016-03-12

予期せぬ災難がすべてを奪ってしまうとか、偶然から不幸な事件に巻き込まれてしまうとか、突発的な事故や病気でチャンスが失われてしまうとか…我々の人生には「不運」という一言では簡単に片づけられない「逆境」に追い込まれるケースがしばしば見受けられます。そういう中で、どんなに努力しても“思うような成果”が得られないとき、人はしだいに将来への“意欲”や“気力”を失ってしまいがちなものです。時として長い人生には、どうすることも出来ない「八方ふさがり」の時期が存在するからです。そういう時、大切なのは「運命」として諦めることではありません。「時」が運命を解決することもあれば「出逢い」が復活を後押しすることもあります。簡単に諦めてはいけないし、投げ出してはいけないのです。そして大切なのは「今」の“在り方”です。とりあえずの“対処法”です。それが出来たなら、今度はとりあえずの“願望”や“目的”を持つことです。あくまでも当面の日常的な“小さな願望や目的”が良いのです。それを何度も繰り返すうちに、必ず“未来が開けてくる”からです。そういう風に出来ているからです。

なぜ「後追い」ばかりしようとするのか

2016-03-11

最近『週刊文春』のスクープ記事が話題となることが多い。確かに「驚くべき事実」や「衝撃的な話」をスクープしている記事が多い。良くも悪くも、あらゆるマスコミをリードしている。それ自体はマスコミの在り方として“賞賛すべきもの”だと思うが、問題はそれ以外のマスコミの方で、ほとんどすべてのマスコミが「後追い取材」を敢行している。つまり「文春」が“見つけた獲物”に我も我もと食らいつく「ハイエナ取材方式」なのだ。三流週刊誌なら仕方がないが、スタッフを大勢抱える一流週刊誌やスポーツ新聞、TVワイドショーまで含めて、後追い合戦をする。もともと日本のマスコミは“一方向だけ”に傾きやすい。「ワルイ」となったら誰もが「ワルイ」で、別角度から「好い部分」を探すなどは絶対にしない。従って「バッシング報道」が過熱しやすい。それは日本人の単一民族性も多少影響しているかもしれないが、少なくともマスコミは「自分たちの取材網」から“独自の話題”や“新たなスクープ”を提供できるようになるべきだし、何よりも「自社の眼」と言えるような“確固たる思想”の元で報道してほしい。

引き返す「勇気」

2016-03-10

昨日、二つの象徴的ニュースがあった。その一つは「野球賭博」の巨人・高木投手の謝罪会見であり、もう一つはタレント女医・脇坂英理子の診療報酬詐欺による逮捕劇だ。二人とも優秀な素質・才能を持つ人物だが、もう一つの「顔」があった。高木は朝からパチンコを打つほどの“ギャンブル狂”であり、脇坂は一晩900万を使ったことがあるというほどの“ホスト狂”であった。多分、二人とも最初はあまり罪の意識なく「横道に逸れた」のであり、そののち「やばい」と感じたが、引き返すことをせず、そのまま“突っ走って”しまったに違いない。そして、その背後には「わるい奴ら」の影がちらつく。どんなに優秀な人物も「金の誘惑」と「愛の誘惑」には脆いことがある。“危険だ”と感じても、その時にはもう遅く、“どうしてよいかわからない”ところまで引き摺り込まれているケースが多い。最後の最後で高木は“目が覚め”、すべてを明らかにすべく「謝罪会見」を行った。一方の脇坂は「弁護士が来てからでないと何も話しません」と必死である。まだ本当に“目覚めて”いないのだ。誰もが“間違いを犯す”ことがある。問題はそのあとで「引き返す勇気」を持てるかどうかだ。それに気付かないと、転落が待っている。

「みんな一緒」という認識

2016-03-09

「自分は違っている」と思うと、見知らぬ人たちの“視線”とか“表情”とか“態度”とかが妙に気になるものです。ほんとうは「みんな一緒」と思うと、誰がどう見ようと、どう云おうと、どう捉えようと、気にならなくなるものです。実際、一見“それぞれが違っている”ように見える人間の「外の形」も「中の形」も、本当のところは「みんな一緒」で、それに気付いていないだけである場合が多いものです。「違っている」ように錯覚しやすいのは、時間軸での捉え方が「今」だけで観ているからです。空間軸での捉え方が「そこ」だけで比較するからです。そういう風に「今」や「そこ」へのこだわりを捨てて、自分を“天空から客観視”してみると、意外なほど“自分の姿”は目立たなくて、誰もに似たような部分があって、それぞれに弱点や欠点や苦悩があって「みんな一緒」に見えてくるものです。「今」や「そこ」を頭から外してしまえば、こんなにも“自由で普通になれる”ことに改めて気付かされるのです。

「そこそこ」こそ最高の生き方

2016-03-08

どのような世界にも「トップクラス」で順位を競うような人たちがいる。誰もが“注目する人達”で、誰もが“知っている人達”だ。別にその「業界」ではないのに、名前だけはどこかで“聞いたことがある”とか、顔だけは何かで“見たことがある”というような人たちだ。けれども、当然ながら、そういう人たちだけが“その世界”に居るわけではない。むしろ圧倒的に“多くの人達”は、その世界に居ながら一般的には“あまり知られていない人達”だ。世の中とは“そういう風な形”で成り立っている。ただ一般の人達は知らないが、その業界の人であれば一応「名前だけは知っている」ような人たちもいる。つまり、その業界では「そこそこの実力を持っている」とか、特殊な分野では「それなりの評価を得ている」とか、有名ではないが「長年にわたる功績がある」などの人達だ。実はどの分野でも「トップクラス」で順位を争うような人たちには、一時的な“脚光を浴びる”が、その後に「どん底」を経験している人達も多い。良く言えばドラマチックだが、悪く言えば「安定感に乏しい」人生も多い。また「敵も多い」のが特徴だ。「そこそこ」の人達は、特別“華やかさ”には欠けるが、安定感があり、敵が少ないのも特徴だ。

問いかける「ガウディ」

2016-03-07

TVで「サグラダファミリア(聖家族贖罪教会)」の建築で有名なアントニ・ガウディの生涯について特集していました。なんとなく「知っている」と思っていたガウディやサグラダファミリアでしたが、知らないことがいっぱいで改めて「神の存在性」について考えさせられました。まず彼が少年時代からリウマチを患っていたこと。その結果として自由に動けず、植物や自然を観察し、描写する子供時代を送ったこと。建築学校の卒業時、学長に「私は狂人に卒業証書を渡しているのか、天才に卒業証書を渡しているのか」と言わしめたこと。その晩年は全財産をサグラダファミリアに投じ、その地下室に暮らしたこと。そして日課であった教会に出向く途中で電車にはねられ亡くなったこと。すぐ手当すれば命を取り留めたのに、ぼろの衣装から浮浪者に間違われ、病院への到着が遅れて亡くなったこと。通常「聖家族教会」と訳されるが「贖罪教会」が正しいこと。通称「ロザリオの間」には、悪魔から爆薬を渡され掴みかけている少年と、悪魔から札束を渡され拒んでいる少女が、左右に彫像されていること。

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