素顔のひとり言

年賀状の不思議

この季節になると誰でも年賀状の用意・準備をしなければならない。全てを印刷に回してしまう人は別として、少しでも“手書き文字”を加える人なら、そろそろ書き出さなければ…と当然のことながら思う。頭では思うのだが、身体の方は一向に書き出す気配がない。そうして何時もギリギリとなる。ひどい時には年末年始に書いていたりする。よく年賀状を“儀礼的なものだから廃止した方が良い”という人もいるが、私はそうは思わない。普段なかなか挨拶をする機会がない人達に年の締め括りとして、お世話になった気持ちを伝え“来年もよろしく”の気持ちを込めることは、私のように言葉や身体で表現するのが苦手なタイプの人にとって「年賀状」は良い手段なのだ。特に親戚に関してはそうである。

私は子供の頃から、年末年始に親戚が集まる…という光景が嫌いだった。何かしら違和感を覚えるのだ。普段、言葉も挨拶も交わしていない者同士が、その時だけ親しげな雰囲気を作って一緒にテーブルに着く―何となく仮面をかぶっているようで、そういう雰囲気を好きになれなかった。甥っ子とか姪っ子とか言われても親しげになど出来ず硬くなっていた。ましてや私の家は貧乏で、親戚の家は裕福で或る種、身分の違いのようなものを幼心が感じていて、言いなりでいなければいけないような屈辱感も手伝って余計に卑屈な面持ちが抜けなかった。

もっとも私が大人になってから“占って欲しい”と姪っ子が客として目の前に現れた時、相談を受けている内に始めて親戚としての情愛が私の中に芽生えた。私のアドバイスが効いたのかどうか、数年後に願望が達せられたとの報告を受けた時、ホッと胸を撫でおろすような奇妙な感慨を持った。家族や親戚を占うことは普通以上に責任が掛り、結果が解かるだけに怖い部分もある。だから本当は占いたくはない。それでも頼まれると嫌と言えない時もあってしぶしぶ引き受ける。総体的に私は見知らぬ人の方が、霊感も働きやすく観たままを言えるので占いやすい。

話は戻るが、親戚・友知人・仕事関係者などに出すことが多い年賀状に、近年では“占い付きの年賀状”を出すことが多くなった。もちろん印刷会社が考案した“占い付き年賀状”であって、私自身のオリジナルではない。ただ何年も似たような年賀状になるのも嫌なので、今回は“占い無し”の年賀状に決めた。その代わりというか挨拶文の方にご利益ありそうな“占いっぽい文章”をオリジナルで加えた。私は何でもそうだが、型通り過ぎるモノは人に送りたくない。“占い付き年賀状”以外にも、昔は版画とか干支似顔絵とか“手作りっぽい年賀状” をいろいろと作ったものだ。ただ年齢とともにそれらが煩わしくなってきた。それに時間的にも不可能になった。せめて仰々しい挨拶が苦手なのだから、こういうものだけでも時間を掛けて…と思うのだが、面倒な気持ちの方が先にたつ。だが、よくよく考えれば、そんなに大袈裟に捉える必要などないのかもしれない。みんな師走で忙しいのだ。

その証拠という訳でもないが、送られてくる年賀状も、そんなに凝っているものは少ない。いや、稀だと言って良い。大体がオーソドックスな年賀状が圧倒的なのだ。たまに個性的な年賀状を送ってくださる方は、ほとんど例外なく“個性派”の人である。一度私は素晴らしい年賀状を受け取って「感激した」と返信したら、それはその当時秘かに流行っていた歌の歌詞一部を、そのまま年賀状のイラストに合わせて記したもので“私に捧げた詩”ではなかったと明かされた。実際、その後になって、その歌(歌詞)は大ヒットした。彼女の“イラスト&歌詞・組み合わせのセンス”が素晴らしかっただけなのだ。或る年、友人に送った私の年賀状は「お年玉」籤番号に当たったと知らされたことがある。確か2等だったと言っていたが、私自身は当たったことがないだけにそういう形で喜ばれたことが嬉しかった。いつぞや同じ人から二通もの年賀状が届いて驚いたこともある。多分、私に出していたのを忘れ、もう一通書いたのだろう。私自身も、三度に分けて出したら、書いていたかどうか解からなくて困ったことがある。喪中ハガキが届くことで、始めてその人の家に不幸があったと知ることも多い。親子兄弟の場合は喪中として年賀を控えなければならないが、傍にいない祖父母の時まで年賀を控えるのは自然なのだろうか。もう少し冠婚葬祭に関するしきたり等も、時代に沿った変化の柔軟性があっても良いよう思うのは私だけなのであろうか。


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